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記事『二十一世紀の日本人にはまだ自然崇拝の心はあるのか』

【文化人類学のレポートとして提出したもの】
 アニミズムと日本の宗教観について書いたものです。今後はこういうレポートも投稿していきたい所存。

 二十一世紀になり、人々の体つきも変化していったように思う。足が細く長くなり、十人に一
人の割合で永久歯が欠損している。これらの変化は進化ともいえるのではないか。

体つきまで変わった今、私たちの思想に変化はないとは言えない。大幅に変わったはずだ。

日本は古来からアニミズム的宗教観をもっているとされる。そして、宗教博物館と言われるほ
ど、多数の宗教を抱えている。神道、仏教、儒教。

『宗教は、私たちのアイデンティティーを構成する根本的な要素であると言われています。[保 坂幸博 2003:1]』

そう言われるように、キリスト教を信仰している国は全ての根本がキリスト教に由来する形で ある。しかし、日本はどうだろう。形だけはほとんどの家が仏教徒であるはずなのに「無宗教だ」 という人のほうが多いように思う。私自身、神社もお寺も好きではあるが「信仰」しているか、 と言われたら即答せずに、どうだろう?と頭を悩ますだろう。いや、頭を悩ますことすらしないかもしれない。「信仰はしていない」と答えるのではないか。日本人の多くは私と同じような回答 をするのではないだろか。

やはり、これの原因はアニミズム的であるという点があげられるだろう。しかし、保坂氏は日 本の宗教的信条に対してアニミズム理論を受け入れることは出来ないという。アニミズム理論は キリスト教自体が内に持っている宗教性を延長し、その理解の中から考案された、他宗教観察の ための理論[保坂 2003:4]だからだ。キリスト教が承知する類の宗教性の価値序列の中で、もっと も価値の低い、最下等のあり方をしている宗教形態 [保坂 2003:4]であるとされるアニミズム理 論を日本に当てはめるということは拒否するべきである。

 日本の宗教的信条には「自然崇拝」がある。ただ一つの神を心の底から信じるというものでもなく、人格的な存在として対話をするわけでもない。

古来日本人が、自分たちの周囲にある山々に特別な宗教感情を抱いてきたということは、明ら かなことだ [保坂 2003:170]、と言われるように、私も山のふもとで育ったため山との心の距離 は近いように思う。高校生になり都会に進学したこともあり地元から出ることが多くなって、友 達の家の近くに行った時のことだ。その子の家は大阪の大都心のど真ん中、高層ビルが立ち並ぶ ような場所にあった。その時私は「山が見えない」と不安になったのだ。地元にいればいつも見 えている大きな存在が、この場所にはないのだと思い、急激な山との距離に不安を覚えた。これ は私の根本的な自然崇拝が顔を出した瞬間だろう。しかし、そのことをその友人に話すと理解さ れることなく、逆に馬鹿にされた。この経験から、山の近くに住む人は山とのつながりを感じや すく、都心に住む人は山のことを考えることもないのだとわかる。
近年都市化が進み自然とのつながりが減ってきているように思う。山も川も海も近くに存在し ている人にとっては当たり前であるが、多くの都会に住む人には遠い存在でしかないのだろう。

二十一世紀に誕生した新しい日本人は自然崇拝の心を持っているのだろうか。新しい時代が完 成しきった社会の中で生きていく若い日本人には西洋的な考えの方が身近な存在なのではない
だろうか。都市の発達により、自然と距離が出来た私たちは自然の中に日常生活のよりどころを 見出すことは出来なくなるのではないか。事実、Instagram や Twitter などにあげられる写真は 「人」を中心にした写真が多いように思う。これは西洋絵画の特徴である人間中心の考えが浸透 しているからではないか。風景の写真を撮ることに魅力を感じず、「交友関係」を撮ることのほう が彼らには重要なのだろう。

しかし、一方で近年「俳句」が流行り始めた。テレビ番組「プレバト!!」や漫画「ほしとんで」、 映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」といったように、俳句という存在が一般化してきた。 小学校のころから俳句を習うけれど、私たちはそこまで俳句と距離が近くはなかったように思う。 古典で百人一首を習っても意味が分からないと切り捨てていた人も少なくはないだろう。しかし、 この数年突如として俳句をテーマにしたコンテンツが増えた。

俳句は季語による自然把握を基本とする[保坂 2003:178]とあるように、俳句は自然との距離が 近く、自然を感じ取り、その自然との関わりによって生きていることの意味を確認する、私たち の奥深い宗教的な意識を継承した詩文学であったと保坂氏は言う。そのような俳句が流行ってい るのだとすれば、自然崇拝の心が湧きたってきているのではないか。

 以上のことから、日本人の自然崇拝の心の有無は二分されているのだろう。西洋的なものが主流になったからこそ、古き良き日本の自然を大事にしたいと思う人が現れ直したのではないだろうか。コロナの流行も相まって、家に籠ることの不便さ心の余裕のなさを感じた人々の心に自然がより沿い始めたのではないか。いや、自然はいつだって私たちの近くにある。必要とされなくたって常にそこあり、私たちが還っていく場所になってくれるのではないか。だからこそ、自然崇拝の心を失ったとしても日本人の根本には自然が存在するはずだ。

引用文献・参考文献
保坂幸博、2003、『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム』、新評論。 奥野克巳、2020、『モノも石も死者も生きている世界の民から人類学者が教わったこと』、亜紀書 房。
サー・ジェームズ・ジョージ・フレーザー、1994、『図説 金枝篇』、東京書籍。 岩田慶治、1993、『アニミズム時代』、法藏館。
岩田慶治、2000、『死をふくむ風景 私のアニミズム』、日本放送出版協会。 J.ブロス、2000、『世界樹木神話』、八坂書房。

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