マガジンのカバー画像

風の記憶、時の雫

1,255
note をはじめてみようと思う。 秋晴れの空を眺めていたら、風がやってきて、 そのときにふと思ったわけです。
運営しているクリエイター

2020年5月の記事一覧

梅雨入り初日

今日、四国地方が梅雨入りした。 皐月風が去って行く前に梅雨がやってきた。 この時期に続く長雨を梅雨というのは ちょうど梅の実が熟する頃の雨季だから という説が一般的だ。 ついでに言えば、皐月晴れというのは、 梅雨の合間の晴れを指す言葉で、 五月の晴れをいうものではない。 ただ、今は、5月の晴れを五月晴れ(さつきばれ) といい、梅雨時の雨は「梅雨の合間の晴れ」と するようになっている。 これは気象庁の見解だけども、情緒的には 梅雨の合間の晴れを皐月晴れと呼びたい。 梅雨の

水無月を前にして

5月が6月に移る日まであと1日。 コロナ禍のせいもあって、 今年はなぜかいつもより早く感じる。 家の周辺の田んぼは田植えに備えている。 入梅ももうすぐだし、ため池から水を引く時期だ。 コシヒカリだけはもう田植えを終えている。 品種としては早い苗付けなのがコシヒカリ。 田んぼに水が張り水田となる頃には 初夏という名も薄暑と変わり、 やがて梅雨をむかえ、そして去る頃には 本格的な夏到来となる。 今年の気象長期予報では、例年よりも 梅雨時の雨は多めで夏は暑いという。 過酷な

幸福の日

今日、5月29日は「幸福の日」らしい。 529(コウ・フ・ク)の語呂合わせだけど なぜか嬉しくなる。 世界の人々が幸せに平穏に暮らせることを祈る。 そのような日として決まったそうである。 まさに今、世界に求められていることではないか。 新型コロナウイルスの蔓延によって、これまでの 日常が奪われた世界は、幸福感を感じる心の余裕も なくなってきている。 別の見方をすれば、これまでの社会の文脈にあった 幸福のあり方が変わってきているということでは ないだろうか。 経済的豊かさが

くらやみの底

地面が曇り その底には病んだ人間がいた 蒼天の光のもとで 地面は暗闇そのものだった 病んだ人間は暗闇では見えない 地面の底には 誰もいないも同然の存在だった 蒼天の光で 膨れ上がった緑が 迫ってくるほど 山々を近づける 季節は初夏になろうとしているときに 病床に横たわる人間をまたない 憐れも 同情することもなく 摂理は容赦なく 蒼天にも地面にもあらわれる 畏しい法則のなかで 地面の底から 生き抜くことを強いられた きびしい地面の底のどこかに 膨らんだ緑のような意思

それでもいい

お酒を絶ってもう何年になるだろう。 すぐには思い出せないほど  あの時間はかすんでいる。 強くはなかったけれど 飲む時間は好きだった。 それは独りでも ふたりでも  気の合う仲間何人かでもいい バーでも 居酒屋でも 小料理屋でも それなりのお店でもいい。 自分を包む空間ができるならいい。 BGMはスロージャズで 何を語ろうか 語るまいか ありふれた日常を解かした灯りがいい。 あの時間は酔いに止まったまま どこかに行ってしまったけれど それでもいい。それでも。

紅の花

今日5月26日から七十二候の 「紅花栄(べにばなさかう)」に入るそうだ。 文字通り、紅の花が咲き誇る頃になったということ。 この紅花は日本人にはなじみが深い花で、 紅花は咲き始めは黄色い花だけど、次第に赤くなる。 紅の染料になることでも知られている。 「紅」という字は「くれない」とも読むが、 これは「呉藍(くれあい)」が音変化したもの。 古の中国との交易によって伝えられたものだからそうだ。 でも、紅は赤色なのに、藍は藍色(インディゴ)だ。 なぜだろう? 藍は秋に薄紅色の小

なつのかぜ

ありがとうのみちを すこしずつあるいていく あしのうらで しっかりと かみしめながら これまでの じんせいで えた  たくさんのありがとうは  うしろにあるのではなく ずっとまえにつづいている ありがとうのみちは ぼくのみらいだった たいせつにしまっておいた おもいでではなく これからあるいていく みちを  てらしてくれるものだった なにがまっているか わからない どんなくなんがおとずれるかも わからない ありがとうのみちは そこを すすんでいくための ゆうきだと 

印(しるし)

行く道が閉ざされ 何者かに遮られ 途方に暮れる 運をすべて使い果たして 何も残らない 過去に歩いた道さえ 消え失せて 戻る道も見えない 一番大切にしてきた言葉を 思い出せず 一番大切な君にも 会いに行けない 世間がそうだとしても ぼくは違うと思ってきた 未来を歩く覚悟はあるの 君を誘いに行く勇気はあるの 丸裸の夏にさらけ出す 途方に暮れた空は 深く閉じて 目を覚ますときがあるの 使い捨てた覚えのない愛が 名残惜しい空から反射する うつむいたままでは拾えない ぼ

キスの日

今日5月23日は「キスの日」らしい。 そう聞くだけで、どこか胸がときめく人も 妄想が爆走しだす人もいるでしょう。 それはちょっと横に置いといて・・・ なぜ「キスの日」なんてできたのでしょう。 これは、日本映画で初めてキスシーンが 登場した日だからなんだそうです。 その映画は『はたちの青春』(1946年) 戦後1年目の占領下に封切られたわけで、 その時の衝撃と興奮と高揚はいかほどであったか。 いや困惑の方が大きかったかもしれませんね。 これにはある思惑があったそうです。

星の見えない夜

星が見えない夜もあった 日差しが届かない日もあった でも変わらず ぼくは立っていた 手を伸ばしても 触れることさえできない 背伸びをしても 並ぶことさえなかった どうしても 隔たりを縮めることはできなかった 立っている場所に 風は吹いてくる 方角が変われども 風は吹いてくる 温もりや強弱は変われども 風は吹いてくる あきらめきれずにいるぼくに メッセージを繰り返すように 時間は刻まれていく そのままでは 隔たりは変わることはなかった ぼくが変わっていくことで距離は縮ま

願い

ささやかな日常を願うことが叶わなくなる いきなりそれはやってくる  予告もなしに オロオロしながら碁石を打つ あわわと盤面を見る為政者 まぶしいばかりの日常はかすむ ささやかな幸せを願うことが大変なこと 身体を串刺しにするほど 胸を打ちつける それでも時はやってくる 白地図を広げて鼓動が高鳴る 大雑把なくらいがちょうどいい 忘れても思い出す 忘れられていても甦る 願いを叶える道は自分で描くから始まる

小満

今日、5月20日は二十四節気の「小満」。 自然界のすべてのものが次第に 天地に満ちてくる日だそうだ。 つまり、すべての生き物が生気にあふれ、 生命力が充実してくる時期だ ということを表している。 昨日の雨は走り梅雨とも言える。 一昨日は夏日かと思うほど暑さも加わった。 田に目をやれば、麦は穂が実り、 水田には水が張られ、早い所では田植えが はじまっている。コシヒカリは田植えが早い。 遠く山野の緑も濃く深みを増してきている。 まさに小満の暦通りに自然は夏に向かい、 暮らしも

この時代に書くことの意味

5月の声を聴いて早や20日。 あいかわらず自粛生活の中にいる。 と言っても、不要不急の外出を控えているだけで 特別なことはしていない。 ただ時代の転換期における変化を見ているだけだ。 自分もこの変化の中にいるのだけれど、 TVなどの報道で見る世界には どこか違和感を感じている。 TV報道だから偏った映像を見せられている ということも何割かはあるだろう。 だけども、政府の対応や国会審議のやり取りに 不毛さを感じることもある。 その一方で、自治体の中にはこの時代に必要な 政治

頭痛が教えてくれた

昨日は夏日。 今日は雨で空気が沈んでいる。 こんなに日替わり気温差は体に悪い。 その実、頭痛がひかない。 う〜ん、 困ったことに仕事がはかどらない。 しかし雨は必要だ。天の恵みである。 苗付けた野菜には必要。 田植えした水田の小さい稲の苗にもだ。 しかし頭痛には困ったものだ。 本を読もうにも、長く活字が追えない。 テレビを見ようにもつまらない番組だけだ。 で、横になってゆったりしている。 昼間、スーパーに食材を買い出しに行った。 それだけであとはほとんど寝ていた。 そ