十六夜の月、冷たき果実の匂い
Xの方に引用しましたが、宮沢賢治は月を見ると果物の匂いを感じる感覚を持っているとされています。
あるいはこんなエピソードもあります。
これは、ベートーヴェンの月光ソナタ(ピアノソナタ第14番)を聴きながら、賢治が教え子たちに語ったとされる台詞です。
どうでしょうか。
楕円や円や鈍角や直線や山形が出てくるのが見えましたか?
かなり独特な感覚ですね。
音のイメージが単なる景色でなく、とても具体的な形象としてイメージされているのがよくわかります。
共感覚というのは「ある感覚刺激を本来の感覚以外に別の感覚としても知覚できる能力」のことを指します。
賢治の場合、月を見ると(視覚)、果実の匂い(嗅覚)の知覚が働くという共感覚を持っていたということができますが、この独特な感覚は賢治の世界観や宗教観と深く結びついている気がします。
賢治にとって「月」は特別な存在で、前述の曲も「月光のソナタ」ですし、賢治は月を「月天子(がってんし)」と呼んで敬っていました。(月天子は月を神格化した神様)
ここには賢治の世界観(宇宙観)が表されていますが、たとえ、月が物理的な実態を持った存在であっても、月を神格化するわたしの考えと何ら矛盾しないと述べられています。
賢治の世界観については、このブログにとてもとても丁寧に分析されていて非常に勉強になるので、ぜひ読んでいただきたいのですが、賢治の月天子のとらえかたを「唯物論」「二元論」「観念論」を否定し、「空」という現象としてとらえる法華経の観点から分析されています。
わたしは宮沢賢治作品の豊かな想像力や感性、世界観(宇宙観)や宗教観、文学性は、この賢治独自の感覚 - 共感覚 - が根底にあって生まれたのではないかという印象を持っています。
いまでは、ADHDやASD、HSP、自閉症など独自の認知、感覚について少しづつ述べられるようになってきていますが、個人個人の認知の感覚というのは人生観や世界観の形成に直結するとともに創作者の世界観と直結していきます。
なので、賢治が法華経の理論的観点からこのような境地に至ったというよりは、賢治の生まれつき持った身体感覚、直感的感性をもっともよく言語化していたのが法華経だったので、賢治は法華経に惹かれていったのではないかととらえています。
月が匂いを呼び覚ますきっかけになる。
共感覚に関しては、まだまだ現代科学では解明しきれていないことも多いと思います。
なぜ、月を見ると匂いの感覚が呼び覚まされるのでしょうか。
月の明るさが共感覚を呼び覚ますのでしょうか。
では、月と同等の明るさを月とは別に用意すると同じような感覚を引き起こすことができるのでしょうか。
それとも月は何か賢治が感じたようなもっと神秘的な何かの力を秘めている存在なのでしょうか。
月が共感覚を呼び覚ます力を持っているとすれば、月によって眠っていた古代の記憶が呼び覚まされたとしてもおかしくはないですね。
きょうはここまで
それでは、みなさまと一緒にワクワクしながら、この不思議な旅を楽しんでいきたいと思います。
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