ここ最近の変化と、些細だが大きな楽しみを見つけたこと/現代の子供の可能性向上に蓋をしかねない教育

これは、ただの日記。

とはいえ、普段の活動にもなかなか食い込んできている面白い出来事があるので、書き残しておいてみようかと思い立った。

私の部屋には、ラジオ、スリープ機能、USB(USBメモリの中のMP3を再生することが可能)、タイマー機能(指定した時間内にラジオやCD、USBの音源など再生してくれる)のある、CDプレイヤーがある。

1年程前までは、私はこれもできなかったが、今は、朝、5:00から勝手にラジオが流れるように設定している。
5:00から古楽の番組があるので、普段の勉強とリラックスも兼ねてそれを聴くためで、その番組自体は5:00から55分ほどの番組で、ただ、ラジオは6:10に切れる設定にしていた。
私はこの番組以外は興味なかったので、わざわざ電源を消していたのだが、その内、番組が終わった後の5分間気象情報をやっていたのでそれをだんだんと聴いてから活動を始めるようになり、その内、その後6:00から基礎英語レッスンをやっていることに気付き、案外おもしろい、語学学習に触れる機会も殆どなくなっている生活であるので、何もないより触れている機会になるかもしれないと、いつしかラジオが6:10に勝手に切れるまで、放っておくようになっていた。

そして、ごくごくつい最近のこと。
なぜだか、これは本当になぜだか、不思議な心境の変化で、世の中の時勢にも少しは触れておこうかと、自分でも不思議だったのだが、ラジオであれば邪魔にならない音量で流しておくこともすぐに切ることもできる、恐らく7時からはやるだろうと、一度6:10に切れるラジオを、再びつけてみたことがあった。
世の中の出来事やメディアどころか、世俗的な番組企画というようなものにも全く興味がなかった(ラジオはクラシックさえ流れていればという頭だった、他は専らUSBで音楽を流すためだけに使っていた)、寧ろ聴きたくもなかったため、本当に不思議な変化だった。
”社会”の中で生きようという根幹に、僅かなりと動いているのだろうか。

すると、面白いことに気が付いた。
朝のラジオは、英語クラスばかりあるのだ。
6:00~は中学生の基礎英語、その後には基礎英語レベル2と段階が少し上がり、続け様に少しレベルが上がった英語が流れるからまた面白い。聞くともなしに聞いていても、なかなか頭に滑り込んできやすいというのだろうか。

しかも、レベル1では、小さい子でも面白がりそうな少しうるささのある絵本の物語のような題材であるのに、レベル2になると、実際の中高生が学校や家庭で話しているような脚本になる。

そして、7:00からニュースがあり、これが何と、30分もやらない。
ああ、これくらいなら聞き流しておいてもいいかと思いながら、作業をしながら流している(内容を覚えている自覚は実は全くないのだが)。

そして、何とこれまた面白いことに、そのニュースが終わると今度、また英語レッスンになるのだ。次のものはまた更に段階が上がって、高校レベルかその辺りだろうか。
そして…それが終わったら今度は、ビジネス英語の番組が出てくる。

NHKのラジオは英語番組に乗っ取られているのか。

その内、いつの間にか、これらも聞くともなしに聞いているようになった。
何せ、聞くともなしに流していてもなかなか頭に風通し良く英語が流れてくる。大分長く英語から離れているだけに、なるほどこう言うのかというようなフレーズが聞こえて来たり、ビジネス英語に至っては、頭はついていかない。テキストがあるのだろうが、聞き流しているだけであると説明もさらっと流れてしまう。が、何やら体感が何か心地良く吸収している。
しかも、何より、何やら良い気分転換になっていることに気付いた。

私は普段、心理カウンセリングやセラピーでひたすら日本語を緻密に緻密にこねくり回しているのが常なので、尚更なのだろうか。
作業をしながらこんなものを流していたら非効率だし邪魔だと思っていたが、実は心地良い風が吹いているような時間帯となることがわかってきた。

しかも、本当にここ2日程で自覚してきたことなのだが。
この、7時のニュースの後の恐らく高校生レベルの英語の番組。
この講師の方を、何やら非常に気に入ってしまった。
…ため、お名前を覚えた。大西ひろと先生と仰るようだ。

何が心地良く気に入ったかというと、この方の教え方、説明の仕方が、いつも何かしら嬉しいところに響いて来る。
テンポ感も非常に良いので、そもそも聞きやすいのだが、この方、何せ文法や単語の意味(翻訳的な意味)ではなく、常に”ニュアンス”の視点から説明をしてくれている、というのだろうか。
しかも、込み入った説明をするわけでもなく、軽口に近いような雰囲気で非常に短く、面白い言い方で、体感覚的な説明をする。
「英語・語学の授業」ではなく、「人間関係・会話の授業」のような、心理士的な視点からうんうんと、そういう説明をして欲しいと、頷けるような説明をされるのでなかなか痛快さ・心地良さを味わうとでも言えるのだろうか。

一言一句覚えているわけではないので、意味合いだけなのだが、

Wonder、というのは、自分の心の中の不思議さを感じていることを現わす、意味としては独り言のような意味合いの単語ですが、人間関係においては、これはきっと独り言にはなりません。相手がいる会話であれば、相手はその言葉に返したくなるものです、だから、大丈夫ですよ。

everything was new、全てのものが新しかった、これは、単数形のbe動詞過去形であるwasで受けていますが、every、というのは、全て、と言いつつ、そのひとつひとつのものを見ている、それらひとつひとつの全てが、という意味合いなので、単数形で受けるのは、自然なのです。every、というのは、「緻密」な単語なのです。


説明が痛快。
いや、待て、何が「大丈夫」だ。英語の授業でそんな説明の仕方をするか。
と、なかなか笑いながら、いやしかし、本当に実はそうなのだ、「言語」とは、そういうものだ、という、本質をうまく突こうとしてくれる。
ただ単に意味だけ見れば複数を指しているから複数形を使いたくなるが、しかしこれは単数で受けるのだ、というようなわざわざ表面から見た矛盾を意識した逆説的説明や、「だが、ですが、しかし」などという言葉を挟む説明ではなく、「いや、こちらの方が自然なのだからそもそもこうなって当たり前だろう?何も不思議な点はないのだよ、ほら、理にかなっていただろう?」というさらっとした説明。

そして、もう一つ気に入ったことが、ごく小さなことなのだが、
では今から言う日本語を、英語にして言ってみて下さい。という問題を出して、その模範解答を提示する時に、必ず、
「私たちのお勧めは、」と言う。
ちなみに、その前の中学生の英語では、まあ中学レベルではまだ文法を「文法」として覚える必要もあるのだろうが、しかしこういう問題が出ても、「”~~”、と、言えましたか?」など、解答がひとつしかない(正解がひとつだけある〇×の世界)、かのような暗示をどうしても入れてしまうのだ。

本当に僅かなことかもしれないが、例え中学生の基礎レベルの英語で、例え言い方がひとつしかないような簡単な文章であったとしても、「これはあくまで模範解答である、あなた方が日本語でいろいろな言い方をすることができるように、言語というものはいろいろな単語、言い回しを使うことができる可能性が常にあるのだよ」ということを示唆しておくことが、後々成長してからも語学に対するステレオタイプや苦手意識、可能性の限定を減らすことができるのではないかと感じる。
実際、この大西先生のレッスンの方が、レベルは高い割に質問に頭の中でさらりと答えやすい。
外側にある答えを探すことと、自分の内側にあるものを総動員して出すこととの違いだろう。

実は最近、音楽のレッスンで、小学生の女の子が、どうにも音楽のレッスンの中でも”正解”を求める。
一度弾かせてみて、「ん、何か変なところが2か所ほどなかったか?自分でわかった?」などと聞いてみても、「合ってた/間違ってた」に固執する傾向を感じる。そして、私と彼女の関係は友人のように気軽に話すのだが、楽譜を前にしてある程度自由に答えられるように質問をすると、「え、正解があるんでしょ?」というような態度になってしまい、そして答えることをなかなか渋る。答えを出しかけて「〇〇…ああ、違うかも」とすぐ尻すぼみに自分の答えを打ち消してしまう。
思ったことを言ってみてごらん、と促しても、「え、だって答えがあるわけでしょ」となる。曲を弾いたあとも、「(更には)こういう風に弾けたらなお良いな」と、提示すると、「え、じゃあさっきのは間違っていたのだろうか、でも先生こう弾けって言ってなかったじゃん」と言いたがっているような雰囲気が出てくる。
更には、私はこの子にしばしば、次のレッスンでやる曲の予習をしておいで、という意味で、次のレッスン曲の譜読みや練習を宿題として出すことがある。
以前、この子が宿題をしてこなかった時があり、宿題を忘れたというから、ああ、別に構わない。このレッスンでやっていこうとしていただけだから、じゃあ先生と一緒にやってみよう。と、最初からゆっくり少しずつ弾かせてみようとしたら、この子が突然の猛反発。練習して来ていないから、弾けない!と言い張る。
最初は誰もできないのは当たり前だ、だからレッスンでやるんだよと諭しても、どうにも宿題をしてこなかったことに固執。だが、宿題をしてこなかったことに罪悪感や後悔を感じているわけでは全くないようだ。だが、「宿題忘れは宿題忘れだ。宿題を忘れて練習して来なかったのだから、今ここで弾くわけにはいかない、弾けないのだから。」と断固として譲らず…ということが起こった時があった。

これらの背景には何があるのだろうか…と思ってちらちら話を聞いてみると、どうやらこの子、3年以上持ち上がりで同じ担任のクラスで、宿題を忘れたら始末書のようなものを書かされ(要するに宿題を忘れること自体をどうこう感じるのではなく、他人から宿題を出され、他人のためにやり、できなかったらその他人から始末書を書かされる、という認識で埋め込まれている)、そして国語のテストはどんな感じなのかと聞いてみると、どうやら彼女の話を聞く限りでは、どうやら、記述式の問題の解答にも「正解(〇)」があると思っている、要するに〇×で採点されているらしい。無論、流石に多少表現法は違っても〇にはなっているだろうが、その子は他の子どもの答案は見られないのだから、〇×でつけられたら、彼女は「正解はひとつなのだ」と思わざるを得ない。
今までの曲で〇や花丸を付けてきたものたちについても、ある時、ひとつのアーティキュレーションを覚えた時、以前の曲でもこれがついていたけれど、〇をつけたという話が出て、〇を付けられた意味がわからない、〇をつけたんだったらあれで合っていた(正しかった)はずだ、となった時もあったので、今までの〇や花丸は「よくできました」という意味だと捉えることができず、「正しい解答をしましたね、それで良し」とまるで軍隊的な捉えてしまっていたことがわかったので、それからは花丸の代わりに、クマの顔の絵を描くようにした。

音楽には「正しい演奏」というものはないのだ、ということが、言葉では、頭では何とか頷くことができるようになりながらも、体感でわかることに戸惑っている。
しかし、ひとたび感性が開いた状態で音を聞いたりすれば、高い方が固くて細い、だとか、音色を捉えたり、和音を綺麗だと言ったり、スラーを一度も練習していないのになぜかしっかり楽譜通りに実践していたり、連弾の時に伴奏がまるで流れるようだからこれは静かに柔らかく弾いてみようかなどと言えば実践できる、など、感性のある子だ。

私のクライアントも、何名もが、世の中すべてが「正解・不正解」「善・悪」にわかれるものなのだ、「こう在るべき・こうしなければならない」に根底からとらわれていて、苦しんでいる。


確かに、表面的な言葉の使い方でははっきりそうは言っていないだろうから、先生方も、そんな教育をしている自覚はないかもしれない。
だが、こんな暗示を幼い頃から埋め込む教育がまかり通っていると、これ自体が、現代の日本人の世の中に対する認識・自分の可能性にとんでもない制限をかけるどころか、他人軸で常に他人の目線と価値観で自分を動かし、自分の人生を見失い、境界性人格障碍や強迫性障碍の症状に陥る人たちがどんどん増えてしまう。


と、ただの日記のつもりで話がそれたが、
そんなわけで、この大西先生という方の喋り口が、最近どうにも愉快で痛快で、心地良い時間となっている。
そして、恐らく、私はこの先生のレッスンを聞きながら、この方に憧れを感じているのだろうと、昨今自覚をした。
もちろんラジオでは台本にして読んでいるのだろうが、しかしながら卒ない喋り口なのだ。

そんなわけで、
今日もやるか、と、
思うことができている今日この頃。


そうそう、もうひとつ。
その後のビジネス英語でも、面白い発見があった。

やはり、言語というのは頭ではなく、体感が覚えるものなのだという話をした。

我々は、英語は観光客の相手をしたことくらいはあるが、非常にカジュアルな話で、ビジネスシーンで英語を使ったことはない。
いや、寧ろ単語の語彙などは、下手をすれば中学生よりも少ないかもしれない。

そのため、テキストもなしに、しかも日本語であれこれ作業中に、ビジネス英語のやり取りが流れていても、頭はまるでついていかない。
いや、寧ろ、実のところ、その後に日本語で何を言っていたのか、脚本の翻訳を聞いても、日本語でも内容自体がなかなか難しくて理解できていない…。何せ、そんな契約だの経済的な成長だの、この世界でこれをこう向上させるためには、まだ見ぬ顧客を獲得して意識をどう動かしていくためには、だとか、そんな世界で仕事をしたことがない。

そんなレッスンを聞き流しているわけなのだが、その中で、しばしば、選択問題が出てくる。
例えば、「先ほどの会話文を聞いて、この主人公の〇〇さんは、カフェテリアに何をしに来たのですか」
A.ランチを食べに来た。
B.~と~をするために~しにきた。
C.~と待ち合わせをして~のための~を~するために~しにきた。
などと、なかなか複雑な選択肢も出てくる。

頭では、そもそも真剣に聞いてすらいないので、全く追い付かない。わかりようがない。
だから実は頭の中では答える気もないのだが、なぜだか体感が、「え、これはCだ」というような、なぜだかわからないが確信めいた答えが湧いて来る。
そして、頭では、いや、ろくに聞いてすらいなかったのにどうしてこんな感覚があるのか、そんなくだらないあてずっぽうをしてどうするんだ、と思いながら、敢えて、Bかもしれない、Aかもしれない、などと少しだけ意識を働かせてみる。それでも、なぜだか確信を持って、Cだと感じる。クイズ問題を答えるようなあてずっぽうではなく、なぜだかこちらかもしれない、と動く気がないような答えが湧いて来る時があるのだ。
ちなみに、正答率も良い。

英語のシャドーイングをする時などもそうだが、頭(日本人の日本語の頭で、自分の知っている発音の中で解釈する)で文章や発音を聞いてそれをすぐ真似しようとしても、頭での解釈・翻訳(意味の翻訳というより、聞いた発音を頭の中で復唱して自分の知っているできる発音に変換して発しようとする)に時間をとられ、結果的にシャドーイングできない。
それを、ただ何も考えず頭を空っぽにして、身体に任せる、ということができれば、身体の感覚によって、「発音」ではなく、敢えて言葉で説明してみれば発したその人と同じ口や舌の位置や息の出し方などを即座に模倣するということを、身体はしてくれる。
人は、自分の知らない発音を発音することはできない。だから、何らか自分の頭に既に入っているものと同じものだと解釈したがり、音そのものですら変換・翻訳しようとしてしまうのである。
それを、体感覚に委ねると、不思議なことに、身体(潜在意識)は、意識が制限して意識が使える以上の脳の部位を連動させ、”可能性”を発揮させるのだ。

私は普段、人と話している時でも、本音と建前と言う違いではなく、考えなしか熟慮して発しているかという違いでもなく、なぜだか本質に通ずるものを感じる体感で発している言語を使っている人と、本質からかけ離れてただただ表面だけ浚っているような頭の言語(そしてこの場合、自分で発している言葉の意味を自分で解っていない場合が多い)で話している人と、カウンセリングになった途端にそれが切り替わる人、など、随分と感じることができる。
日本語で、日本語母語話者であっても、成長過程のどこかで、本当の意味を理解しない(寧ろ”理解しないための”)頭の言語、そして自分の可能性を否定し制限する言語の使い方に、切り替わってきてしまうケースがあるのかもしれない。
(そしてこういう人たちを見ていると、やはりどうも傾向として、身体に歪みが生じており身体の自由が失われ、体感の言語を使えない状態になっている、というように見える状態がある。)

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