胡弓かなた

イラストやマンガを描いたり、あきれたぼういずを調べたりしてます。低血圧。

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マガジン

  • あきれたぼういず活動記

    日本初の音楽ギャググループ・あきれたぼういずの活動の変遷を、当時の新聞記事などを中心に追いかけていきます。毎週日曜更新予定。

最近の記事

(64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

(前回)のあらすじ 川田晴久につづき、坊屋・益田・山茶花のあきれたぼういず一行も1950年6月末から渡米。まずはハワイで大歓迎を受け、アメリカ本土からやってきていた三人組ヴォードヴィリアン「タップナチュアス」とも交流した。 【アメリカでテレビ出演】8月14日からはハワイを離れ、アメリカ本土を巡演。移動はやはり車で、ロサンゼルス、カリフォルニアからユタ、オレゴンなど八州ほど廻っている。 しかし川田らとは招聘主が違うからか、巡った会場が違ったせいか、のちの坊屋や益田の話からも

    • (63)あきれたの渡米①/あきれたぼういず活動記

      (前回のあらすじ) 1950年5月に日本を発ち、アメリカ各地を巡業した川田晴久と美空ひばり。 7月に無事帰国し、アメリカ土産の舞台公演やラジオ、映画に登場した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【あきれたぼういずの渡米】川田の渡米からひと月半後には、あきれたぼういずも渡米することに。 メンバーはジャズシンガーの暁テル子に日本舞踊と歌の榎本美佐江、あきれたぼういずの5人で、ハワイの仏教青年会からの招聘だった。 益田の著書によれば、暁テル子の夫である日系二世のキャ

      • (62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

        (前回のあらすじ) 1950(昭和21年)5月、川田晴久と美空ひばりの渡米公演が実現。ハワイで熱烈な歓迎を受けた。6月20日にホノルルを発ち、アメリカ本土サンフランシスコに到着した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【辛いアメリカ巡業】アメリカ本土では、サクラメント、ポートランド、スポークン、シアトル、サンノゼ、ロスアンゼルス、モントレー、サンフランシスコなど、西海岸の都市を廻っている。 大歓迎を受けたハワイとはうって変わって、興行は辛いものだったようだ。 ハ

        • (61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 奇跡の再起を果たした川田は、ダイナ・ブラザースを結成、さらに美空ひばりと出会い彼女を売り出す。そして芸名を川田晴久に改めた。 有木山太もシベリアから復員してきて舞台に活躍する。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田と美空ひばりの渡米】舞台にラジオ、映画出演と忙しく活躍していた川田は、1950年1月、過労で倒れてしまう。 復帰したとはいえ、無理はできない身体だ。 しかし川田はこのとき、アメリカ旅行のプランに期待をふくらませていた。 美空ひば

        (64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

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        • あきれたぼういず活動記
          64本

        記事

          (60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1946(昭和21)年夏、あきれたぼういずが再結成し活躍していく一方で、川田義雄は脊椎カリエスと腎臓結核に苦しめられ、再起は絶望的とまでいわれていた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田の再起】脊髄カリエスと腎臓結核で苦しんでいた川田だが、その精神力で奇跡的に再起、舞台に復帰することとなった。 東京新聞社の記者だった尾崎宏次は、この頃理不尽なレッド・パージ(占領下の日本において、共産党の支持者だとした人々を解雇した動き)に巻き込まれ

          (60)絶望からの再起/あきれたぼういず活動記

          (59)グループで、個人で/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1946年6月に再結成したあきれたぼういず。戦前と違い、フリーで活動していく。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【ストリップ流行】1947(昭和22)年。 1月5日の演芸欄、新宿の帝都座五階劇場のプログラムに「レビューヴィナスの誕生」とある。 大ストリップブームの始まりである。 戦時中に締め付けられた反動でタガが外れたかのように、ここから「ハダカ」ブームの時代となり、「ハダカ」の出ない舞台公演はこのブームに押されて苦戦していく。 しかし

          (59)グループで、個人で/あきれたぼういず活動記

          (58)頭山・音・長井の消息/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1946(昭和21)年6月、坊屋・益田・山茶花が集結してあきれたぼういずを再結成した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【映画出演】7月16日の東京新聞に、理研映画「お好み演芸会」二巻の広告が出ている。 飛行館でのラジオ放送の様子を映像に収めたもので、あきれたぼういずの名前もある。 「近日公開」となっており正確な公開日は不明。 あきれたぼういずは6月12日に一度ラジオ放送をやっているのでこのときの映像だろうか。 舞台公演の様子が映像で残された

          (58)頭山・音・長井の消息/あきれたぼういず活動記

          (57)あきれたぼういず再結成!/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 戦後東京でもいち早く活気を取り戻していた浅草。あきれたぼういずの面々も復帰しつつあった。一方、川田は持病のカリエス再発で療養を余儀なくされた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【ラジオの人気調査・川田の療養】年が明け、1946(昭和21)年1月。 山茶花や坊屋は、舞台だけでなくラジオ放送にも出演している。 NHKでは「お好み演芸放送」に対する投書で統計を取り、放送してほしいジャンル、芸人の人気調査をしている。 一番多いのは浪曲の需要で、演劇

          (57)あきれたぼういず再結成!/あきれたぼういず活動記

          (56)復興は浅草から/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 太平洋戦争が激化する中、あきれたぼういずやミルク・ブラザースは解散。メンバーはそれぞれ個人で活動していた。岡村龍雄・芝利英は戦死。 そして1945年8月15日、終戦を迎える。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! ▶︎今回は1945(昭和20)年8月15日の終戦以後、年内の活動について。 【戦後を生き抜くための娯楽を】戦時中も、終戦後も、演芸娯楽が大衆を励まし慰めるために必要とされていることは変わらない。 東京新聞によれば、8月22日から映画

          (56)復興は浅草から/あきれたぼういず活動記

          (55)戦地の芝利英/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 北海道に帰った益田、そして東京大空襲後の焼け野原で芸人を続けていた川田や坊屋。8月15日、戦争が終わった。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 芝利英は1942(昭和17)年11月の応召後、嵐第二一三部隊・歩兵第109連隊通信隊に配属され、中国戦線へ赴いている。 「あきれたぼういず活動記」戦後篇に入る前に、 今回は戦地での彼の様子について、断片的ではあるがいくつかの資料があるのでそれを見ていきたい。 【サックスを売りに】染織家の吉本嘉門は

          (55)戦地の芝利英/あきれたぼういず活動記

          (54)終戦の日/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1943年以降、入院していた川田は復帰し、浅草花月劇場で「川田義雄一座」を旗上げ。益田も「益田喜頓一座(喜劇座)」で奮闘していたがやがて函館に戻り、製材工場長に。坊屋や山茶花もそれぞれに活躍していた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【前線慰問映画】1944年2月13日の東京新聞に、海軍の慰問映画として「芸能戦線版」を製作中だという記事が出ている。 記事によれば、海軍省委嘱によるこの映画は松竹、東宝、大映、吉本、日蓄の各社が協力して制作し

          (54)終戦の日/あきれたぼういず活動記

          (53)解散後それぞれ/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1942(昭和17)年に新興演芸部に戻ってきた益田は大阪の劇場を中心に出演していた。 翌年に新興快速舞隊(あきれたぼういず)が解散、坊屋や山茶花もそれぞれ個人で活動する道を探すこととなる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【益田喜頓、座長から工場長に】色川武大の『あちゃらかぱいッ』は(16)〈グラン・テッカール旗上げ〉でも紹介したが、この時期のあきれたぼういずメンバー達の活動についても触れられている。 中でも、益田喜頓については「四十数

          (53)解散後それぞれ/あきれたぼういず活動記

          (52)岡村の出征、川田の復帰/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1943(昭和18)年、岡村龍雄は劇団青春座の中心となって活躍する一方、あきれたぼういず改め新興快速舞隊は解散し、ボーイズの時代に終止符が打たれた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! ▶︎今回からは数回に分けて、終戦までの各メンバーの活動をみていきたい。 【川田の退院】1943(昭和18)年7月、無事退院した川田。 「それでも七ヶ所も切開手術をしたので、ちょっと僕の腰部は公開が許されません」(川田義雄/『日本演劇』1945年6・7月合併号)と

          (52)岡村の出征、川田の復帰/あきれたぼういず活動記

          (51)ボーイズ時代に終止符/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1942(昭和17)年。 川田義雄が脊髄カリエス再発で倒れて入院、ミルクブラザースは解散した。 あきれたぼういず改め新興快速舞隊は、芝利英が出征し、穴埋めに長井隆也が加入。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【岡村龍雄の活躍】1942(昭和17)年12月、岡村龍雄は吉本を離れ、清水金一一座の浅草金龍館公演に特別出演している。 そして1943(昭和18)年元旦からは、新生「笑の王國」に参加、浅草常盤座に出演。 以降、松本秀太郎・山口正太郎ととも

          (51)ボーイズ時代に終止符/あきれたぼういず活動記

          (50)川田の入院、芝の出征/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1941(昭和16)年12月8日。日米の開戦により、太平洋戦争が始まった。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 日米開戦とともに年が明け、1942(昭和17)年。 激動の時代の嵐に飲まれ、全国のボーイズが次々と消えていく中、残った二つの灯も、消えようとしていた。 【新興快速舞隊に改称(2回目)】2月に、新興演芸部の親元である新興キネマが大映と合併。 新興演芸部は独立して「新興演芸株式会社」となった。 3月には「あきれたぼういずは時局下に不適当

          (50)川田の入院、芝の出征/あきれたぼういず活動記

          (49)開戦の日/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1941(昭和16)年夏。 地方演劇の流れに乗って、あきれたぼういずは北海道から台湾まで各地を巡業。 一方の益田はグループでの活動とは違う舞台を模索・奮闘していた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田のボイコット】一方、川田義雄は1941(昭和16)年4月にミルクブラザースを従えて再び日劇出演。 当時公開され人気を呼んでいた映画「熱砂の誓ひ」を川田式にして演っている。 このとき、「無届であまりにハメをはづし過ぎる」というので警視庁へ呼び出

          (49)開戦の日/あきれたぼういず活動記