胡弓かなた

イラストやマンガを描いたり、あきれたぼういずを調べたりしてます。低血圧。

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マガジン

  • あきれたぼういず活動記

    日本初の音楽ギャググループ・あきれたぼういずの活動の変遷を、当時の新聞記事などを中心に追いかけていきます。毎週日曜更新予定。

最近の記事

『あきれたぼういず活動記』補足と訂正

書籍版『あきれたぼういず活動記』ご購入、お読みいただいている皆様、本当にありがとうございます! SNSでの発信もとても嬉しいです。 今回は、本の内容についての補足です。 すでにご購入いただいている方にはなんとも申し訳ないのですが、 いくつか気になる点があり改修を行いました。 大きな修正箇所は以下の2つです。 ①128ページ:名古屋新聞ラジオ欄 キャプションに誤りがありました。 申し訳ごさいません…。 お持ちの方は、該当ページに訂正をお願いします。 ②419ページ:

    • 「あきれたぼういず活動記」刊行記念イベントのお知らせ!

      こんにちは。 1週間前の7月7日に無事「あきれたぼういず活動記」の書籍を出版することができ、 嬉しい感想もいただき、感謝しております! そして今回、「活動記」の中にも「あきれたぼういずムービーズ・クロニクル」を寄稿いただいた 娯楽映画研究家・佐藤利明さんと、 刊行記念イベントを開催させていただくこととなりました! あきれたぼういずの魅力を、リアルイベントならではの形でお伝えできればと思っております。 東京近郊の方、ぜひお越しください。 「活動記」と合わせてお楽しみいただ

      • 『あきれたぼういず活動記』書籍がでます!

        こんにちは! 今回は、『あきれたぼういず活動記』書籍版発売のお知らせです。 note「あきれたぼういず活動記」はいつか本としてまとめることを目標に連載してきたものです。 連載と並行して、書籍版の準備も進めていましたが、 ちょうどnote完結直後のタイミングで出版のはこびとなりました! 2024年7月7日発売予定 ¥3,300(本体¥3,000+税) ▼Amazon販売ページ(予約できます!) ペーパーバックA5版(本文白黒)、451ページです。 Amazon POD(

        • (73)坊屋のその後/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。 そして1957年に川田晴久が、1971年に山茶花究が、1993年には益田喜頓が旅立った。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【渡辺邦男監督】益田が菊田一夫と出会ったように、坊屋にも出会いがあった。 早撮りの名手として知られる渡辺邦男監督である。 あきれたぼういず当時から渡辺に気に入られていた坊屋。 1952年の東京新聞では 「ここ二三年来渡辺邦男監督に可愛がられ一

        『あきれたぼういず活動記』補足と訂正

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        • あきれたぼういず活動記
          76本

        記事

          (72)益田のその後/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。 そして1957年には川田晴久が、1971年には山茶花究が、この世を去った。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【菊田一夫と東宝ミュージカル】1957(昭和32)年、益田は東宝演劇部に入る。 1939年にロッパ一座公演で出会った菊田一夫が、このとき演劇部の役員として脚本や演出などに活躍していた。 中でも日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を始め

          (72)益田のその後/あきれたぼういず活動記

          (71)山茶花のその後/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。 そして1957年、川田晴久がこの世を去った。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【親友・森繁久彌】山茶花究と森繁久彌の出会いは1937(昭和12)年、古川ロッパ一座時代である。 森繁いわく「カメレオンのような人相」で人当たりもよくなく、周囲の仲間からも距離を置かれているようだったという山茶花だが、森繁はなんとなく馬が合いそうに思い、酒に誘った。 以来、生涯無二親友と

          (71)山茶花のその後/あきれたぼういず活動記

          (70)川田のその後/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1953年。テレビ放送が始まり、それぞれに活躍をみせる一方、あきれたぼういずは解散して完全に個人で活動していくことに。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【遠山の金さん】川田はその後も身体を気遣いながらも活躍を続けている。 1955(昭和30)年には、国際劇場で「舞台生活25周年記念特別公演」を開催。 年末からはダイナ・ブラザースとともに日劇の正月公演に出演している。 映画では、同じ新芸術プロの専属になった山茶花究と一緒に出演していること

          (70)川田のその後/あきれたぼういず活動記

          (69)解散の謎/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1953年、テレビ放送が始まると、あきれたぼういずや川田晴久、有木山太もさっそく活躍していく。しかし、あきれたぼういずはまもなく解散することとなる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【解散はいつか?】結成日がはっきりしないのと同様、あきれたぼういずの解散時期も、いまいち判然としない。 1951(昭和26)年に解散した、としている資料が多いようだが、これはおそらく、坊屋の発言が元となっている情報だろう。 坊屋は、渡米公演から帰国後「ハワイ

          (69)解散の謎/あきれたぼういず活動記

          (68)テレビの時代/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1951年にラジオの民間放送が始まる。あきれたぼういず達は、舞台や映画だけでなくラジオでも活躍していた。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【テレビ出演】1953(昭和28)年、いよいよ日本でもテレビ本放送が始まる。 まだまだ放送時間も短く、番組も少ないが、あきれたぼういず達は早くから出演を果たしている。 NHKが日本初のテレビ本放送を開始したのが2月1日。 しかし、それ以前から東京新聞にはNHKテレビの番組表が掲載されているので、放送は

          (68)テレビの時代/あきれたぼういず活動記

          (67)有木山太の活躍/あきれたぼういず活動記

          (前回)のあらすじ 1951年に民放ラジオが始まり、あきれたぼういずや川田らもレギュラー番組を持つなど以前にも増した活躍をみせる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 民放ラジオ開始以降、有木山太の活躍ぶりはめざましく、彼一人であきれたぼういず三人に勝るとも劣らないほどである。 今回は、前回noteの続きとして有木のラジオ出演をまとめた後、後年までの彼の活躍ぶりを追ってみたい。 【民放ラジオでの活躍】◆「コロムビア・アワー」(CBC:新日本放送/NJB:中部日本放

          (67)有木山太の活躍/あきれたぼういず活動記

          (66)ラジオでの活躍/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1951年。あきれたぼういずは帝国劇場公演を果たした。一方、吉本興業を離れた川田は新芸術プロダクションを立ち上げる。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【民間放送開始】これまでNHKのみだったラジオ放送だが、1951(昭和26)年9月以降全国に民間放送局が続々と開局、放送開始した。 民放開始当初から、あきれたぼういずたちもラジオで大いに活躍。 これまではラジオ寄席等にときたま顔を出す程度だったが、レギュラー番組を持って毎週出演している。 開

          (66)ラジオでの活躍/あきれたぼういず活動記

          (65)マダム貞奴/あきれたぼういず活動記

          (前回までのあらすじ) 1950年、川田やあきれたぼういず達は渡米公演を果たした。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【浅草花月劇場が復活】1946(昭和21)年秋に舞台興行をやめ、洋画専門の映画館「浅草グランド」になっていた浅草花月劇場だが、1951(昭和26)年から再び実演系の劇場に戻り、名前も浅草花月劇場に戻して復活。 復活第一回公演が50年大晦日初日「初笑い珍道中」。 そして2月28日からはあきれたぼういずが出演、渡米土産の「ハワイ珍道中」を上演している

          (65)マダム貞奴/あきれたぼういず活動記

          (64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

          (前回)のあらすじ 川田晴久につづき、坊屋・益田・山茶花のあきれたぼういず一行も1950年6月末から渡米。まずはハワイで大歓迎を受け、アメリカ本土からやってきていた三人組ヴォードヴィリアン「タップナチュアス」とも交流した。 【アメリカでテレビ出演】8月14日からはハワイを離れ、アメリカ本土を巡演。移動はやはり車で、ロサンゼルス、カリフォルニアからユタ、オレゴンなど八州ほど廻っている。 しかし川田らとは招聘主が違うからか、巡った会場が違ったせいか、のちの坊屋や益田の話からも

          (64)あきれたの渡米②/あきれたぼういず活動記

          (63)あきれたの渡米①/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1950年5月に日本を発ち、アメリカ各地を巡業した川田晴久と美空ひばり。 7月に無事帰国し、アメリカ土産の舞台公演やラジオ、映画に登場した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【あきれたぼういずの渡米】川田の渡米からひと月半後には、あきれたぼういずも渡米することに。 メンバーはジャズシンガーの暁テル子に日本舞踊と歌の榎本美佐江、あきれたぼういずの5人で、ハワイの仏教青年会からの招聘だった。 益田の著書によれば、暁テル子の夫である日系二世のキャ

          (63)あきれたの渡米①/あきれたぼういず活動記

          (62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 1950(昭和21年)5月、川田晴久と美空ひばりの渡米公演が実現。ハワイで熱烈な歓迎を受けた。6月20日にホノルルを発ち、アメリカ本土サンフランシスコに到着した。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【辛いアメリカ巡業】アメリカ本土では、サクラメント、ポートランド、スポークン、シアトル、サンノゼ、ロスアンゼルス、モントレー、サンフランシスコなど、西海岸の都市を廻っている。 大歓迎を受けたハワイとはうって変わって、興行は辛いものだったようだ。 ハ

          (62)川田の渡米②/あきれたぼういず活動記

          (61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記

          (前回のあらすじ) 奇跡の再起を果たした川田は、ダイナ・ブラザースを結成、さらに美空ひばりと出会い彼女を売り出す。そして芸名を川田晴久に改めた。 有木山太もシベリアから復員してきて舞台に活躍する。 ※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を! 【川田と美空ひばりの渡米】舞台にラジオ、映画出演と忙しく活躍していた川田は、1950年1月、過労で倒れてしまう。 復帰したとはいえ、無理はできない身体だ。 しかし川田はこのとき、アメリカ旅行のプランに期待をふくらませていた。 美空ひば

          (61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記