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(72)益田のその後/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。
そして1957年には川田晴久が、1971年には山茶花究が、この世を去った。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【菊田一夫と東宝ミュージカル】

1957(昭和32)年、益田は東宝演劇部に入る。
1939年にロッパ一座公演で出会った菊田一夫が、このとき演劇部の役員として脚本や演出などに活躍していた。
中でも日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を始め、本格的なミュージカルを多数手がけて日本ミュージカルの草分けとなった。

益田はそんな菊田一夫の手がけた舞台のほとんどに出演した。
以前から「オペレッタの時代」を夢見続けてきた益田は、ついに到来した本格的なミュージカル時代でその興盛を支えることとなったのだ。

1963(昭和38)年初演の「マイ・フェア・レディ」ではピカリング大佐役を務めて評価され、毎日芸術賞演技賞も受けている。
1970(昭和45)年の再演時にも7年ぶりにピカリング大佐を演じた。
この再演時の舞台での歌声が、LPレコード『益田喜頓のすべて』に収められている。
その後も度々再上演され、益田も変わらず出演。

あきれたぼういずチームも解散しました。
ひとりひとりが映画に出たり、舞台に出演したりしました。私は東宝演劇部と契約をしまして、宝塚劇場に出演するようになりました。もう当時は芝居も急激に進歩しましたし、戦前のレヴュー時代からオペレッタというものもとびこえまして、ミュージカル時代がきました。
……
そして1970年7月、8月と、ふた月間、帝国劇場で7年ぶりに宝田明、大地主演で再演することになりました。私は前にもやりましたピッカリング大佐を助演することになりまして。やっぱり前にもずいぶん入りましたがねぇ。客席が埋まりましたよ。今はそのマイ・フェア・レディの初日も終わろうとしているんです。

益田喜頓『益田喜頓のすべて』※LPレコード音源より文字起こし

また、1967(昭和42)年「屋根の上のヴァイオリン弾き」では司祭役。
主演の森繁久彌とともに、キャスト交代することなく、なんと907公演に出演している。

【永住帰郷】

1990(平成2)年、「マイ・フェア・レディ」は帝国劇場で何度目かの再演を行った。
4月末の千秋楽で、益田のピカリング大佐役は通算477公演となった。

 今回はもうこのへんが年齢的にも限界だと思って出演しましたので、この千秋楽は自分一人で別な幸せをいっぱい胸に刻み、最後のどん帳が下りてからも全員の乾杯に音頭を取り、力いっぱいおめでとうと叫ぶことができました。

益田喜頓「この道①」/東京新聞・1990年5月21日

益田は長年暮らした浅草を離れ、故郷函館に「永住帰郷」を決めた。
役者として引退するわけではないが、これからは故郷函館に根を張っていくことにしたのだ。
派手なパーティーの嫌いな彼はお別れパーティーなどもってのほかと、隣近所への挨拶だけをすると、5月12日の飛行機でひっそりと函館へ「消えトン」した。

 一時間十分後函館空港へ静かに到着し、背中で口笛を吹きながらウキウキとロビーへ降りましたら、どこでどう知れたのか、平成元年、私が声の出演をした野外劇の皆さんがプラカードを立てて出迎えて下さっているではありませんか。

益田喜頓『キートンの人生楽屋ばなし』

益田は函館で妻や娘、孫たちとゆっくり過ごしつつ、その後も舞台やテレビで活躍を続けた。
そして1993(平成5)年12月1日、函館で84年の生涯の幕を閉じた。

坊屋は、あきれたぼういずでともに舞台に立ち続けてきたからこそ語れる思い出を、雑誌に寄せている。

「喜頓さんは芸に対して熱心でね。我々が楽屋に駆け込む三十分前にはちゃんと入っていて、化粧をすませ、楽器を練習している。ズボラなところがない。見習うべき人でした。彼はキートンですから、舞台上では決して笑わないんですが、我々がおかしいことをいうと、もう笑いたくてどうしようもなくて、後ろを向いて笑いを鎮め、それからまた客席に向う。そんな微笑ましい姿が思い出されます」

坊屋三郎「墓碑銘」/『週刊新潮』1993年12月16日号

2023(令和5)年に筆者が函館を訪ねた際、芸術ホールにあるという益田の胸像を探しに行った。
胸像はどこにも見当たらず、ホールの守衛さんに尋ねると最近市民会館へ移動されたと教えてくださった。
そして「キートンさんの街灯ならある」と案内してくださったのは、芸術ホールと隣の函館美術館の間に立つ、小さな一本の街灯だった。
函館美術館開館の際に益田が寄贈したものだ。
スラリと控えめに佇んだ洒落た白い街灯は美術館の景色に馴染んでいて、益田の人柄がそのまま表れているようだった。

函館では毎年、地元の舞台芸術分野において優れた公演に対して「益田喜頓賞」を贈っている。
今もなお地元の人々に「キートンさん」と親しまれる存在であることは、彼の地元愛の反映のように感じる。

函館美術館前の街灯/2023年撮影

【参考文献】
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
「この道」益田喜頓/東京新聞・1990年5月21日〜連載/東京新聞社
「墓碑銘」坊屋三郎/『週刊新潮』1993年12月16日号/新潮社
『喜劇王・益田喜頓のすべて』益田喜頓/日本ウインザー/1968
 ※LPより筆者文字起こし


最終回(6/23)坊屋三郎のその後

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