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(71)山茶花のその後/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1953年頃にあきれたぼういずは解散し、それぞれ個人で活動していくことに。
そして1957年、川田晴久がこの世を去った。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

 都大路は、唇の切れるような寒気の底にあった。
 見上げると、摩天楼はただ凛冽の闇の中に輪郭をかくして、高い窓々の明かりだけが天に浮いている。車のラジオを入れると「何処どこの間は雪のため通行不能です」ばかりが聞こえ、あの上空の零下五十度の寒気の雲にまぎれてやって来たのは、いつも「非情」と色紙に書いた山茶花究の精霊ではないかと、ふと思った。

森繁久彌『あの日あの夜』

【親友・森繁久彌】

山茶花究と森繁久彌の出会いは1937(昭和12)年、古川ロッパ一座時代である。
森繁いわく「カメレオンのような人相」で人当たりもよくなく、周囲の仲間からも距離を置かれているようだったという山茶花だが、森繁はなんとなく馬が合いそうに思い、酒に誘った。
以来、生涯無二親友となった。

まもなく一座を退座した森繁は、その後NHKのアナウンサーになり満洲へ渡ったが、終戦後帰国すると再び舞台の世界へ復帰した。

戦後、ぼくが引揚げて来てムーランにいたころ、金がなくてねェ。その頃あいつは<あきれた・ぼういず>が復活して景気がよかったらしい。フラッとやってきて、新聞紙に包んだ札束をぼくの前に置いた。4〜5センチも厚みがあったかな。使いでがあったよ。飲む打つ買うの3拍子。金づかいの荒い男だったなァ

森繁久彌/『週刊明星』1971年3月21日号

1950(昭和25)年、森繁は藤山一郎とともにラジオ「愉快な仲間」にレギュラー出演、
以来舞台に映画に活躍し、瞬く間に人気者となっていた。

【映画での評価】

1955(昭和30)年にそんな森繁が主演した映画「夫婦善哉」の大ヒットは彼の人気を決定づけた。
そして森繁の推薦で出演した山茶花もまた、これまで舞台で培ってきた演技力を広く評価されることになる。
神経質で冷酷な婿養子・京一役はまさにハマり役だった。

以来、山茶花は「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」をはじめとする喜劇映画にも出演する一方、黒澤明、川島雄三監督作品にも多数出演し名脇役として活躍した。
1961(昭和36)年、川島雄三監督作品「女は二度生まれる」でNHK助演男優賞を受賞。
授賞式には坊屋や益田も参加して受賞を祝った。
坊屋は「あきれたぼういずでは“受け”だった彼がこんな賞を受けるとは…」と挨拶したそうだ。
あきれたでもよき受け役だった山茶花が、脇を固める唯一無二の存在としてその助演ぶりを評価されたわけだ。

【舞台役者として】

また、舞台にも変わらぬ熱心さで活躍した。
1961(昭和36)年に森繁久彌が立ち上げた森繁劇団にて三木のり平とともに副座長を務め、森繁の右腕として一座を支えた。

東宝ミュージカル「マイ・フェア・レディ」「屋根の上のヴァイオリン弾き」にも出演。
森繁や、益田も共演した。
「マイ・フェア・レディ」の悪役・ゾルタン教授役ではテアトロン賞を受賞している。

映画、テレビ、舞台と活躍するなか、1970年3月の新歌舞伎座「三波春夫ショー」のため大阪に来ていた山茶花だが、脳貧血で突然倒れてしまった。

そのまま帰京して4月まで休養をとり、ようやく復帰したのが5月1日、森繁劇団の明治座公演「じょんがらの星」「船頭小唄」だった。
ところがこの舞台中に再び倒れ、それでも酸素マスクをつけてまで舞台に立ったが、周囲が無理に止めて入院させた。

酒と薬にすがってきた日々が祟り、内臓はボロボロですでに絶望的な状態だった。

 「ガンではありませんでした。しかし、内臓各部の衰弱もひどく、昨年秋ごろからもうダメだとわかっていたんです。
 ご本人もそれを知っていたようですが…もういちど舞台に立ちたいという執念が感じられましたね。気丈な人だけに、これまでもちこたえたんでしょう」

山茶花が入院した内藤医院・内藤院長の話『週刊平凡』1971年3月18日号

病室で「六月の舞台(森繁劇団の公演)にはなんとしても出たい」と口癖のように言っていたという。
しかし、その願いは叶わなかった。

1971年3月4日、入院先の病院にて、56歳で生涯を終えた。
5日の通夜で森繁は「片腕をもぎ取られた」と心境を語っている。
10日の葬儀では山茶花の好きだった酒「ヘネシー」の瓶が供えられ、彼の愛したロシア民謡「草原」を皆で歌って送ったという。

山茶花のデビュー間もない頃から知り合いだったという阿木翁助の言葉――

 山茶花究をいたむ

 あれは焼け跡が残っている終戦直後だったが、いなかに引っ込んでいたぼくは究ちゃんに呼ばれて脚本を書いたことがあります。究ちゃんと清ちゃん――河津清三郎さんが劇団を作ったんです。たしか「黒潮」といったと思います。
 芝居は究ちゃんがやくざの親分になり、胸を刺されて口からすごい血を吐いて死ぬんです。黒沢明さんの「椿三十郎」がジャバーっと血を出すでしょう。あれと同じくらいでね。そういうところは、なかなかの凝り屋で熱心な人でした。

 人間的にもあきれたぼういず式のチャランポランさはなく、正義派でした。議論になってもスジをいうほうで、なかなかのウルサ型、一言居士でしたね。生まじめで理屈屋さんでした。
 堺駿二さんもなくなり、数少ない浅草派生き残りの一人でしたが、年齢的にも、まだまだ働き盛りだし、健康に気をつけ、マスクを生かした新しい悪役を作りだしてほしかった。(談)

阿木翁助/東京新聞・1971年3月5日

名前が「山茶花」だからだろうか、彼には冬の凍てつく寒さのイメージが似合うようだ。
森繁も、また山茶花の死去を伝えた週刊誌さえも、そこに「寒さ」の描写を重ねている。
おかげで筆者も、身体の芯まで冷え切るような寒い日にはふと、山茶花究の日だ、などと思うようになってしまった。


【参考文献】
『あの日あの夜』森繁久彌/東京新聞出版/1986
「時は巡り友は去り」森繁久彌/『日本の名随筆 81 友』1989年/作品社
『週刊平凡』1971年3月18日号/平凡出版
『週刊明星』1971年3月21日号/集英社
「辛味亭事苑:だれか軽演劇史を書かないか」都筑道夫/『キネマ旬報』1970年11
月下旬号
東京新聞/東京新聞社


(次回6/16)益田喜頓のその後

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