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(70)川田のその後/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1953年。テレビ放送が始まり、それぞれに活躍をみせる一方、あきれたぼういずは解散して完全に個人で活動していくことに。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

川田晴久が世を去ったとき、私は、川田らの「あきれた・ぼーいず」が昭和十二年のあの暗鬱な時代にぎらぎらと登場してきたことを想った。また、エノケンも昭和四年の陰気な失業者激増の時代にすっとんきょうに登場してきたことを考えあわせた。そして、こういう優れたヴァードビリアンたちは、きまって暗黒の時代に、一種の天才のように出現したものだと思ったのである。それはまるで必然性ででもあるかのように。

尾崎宏次「アメリカ人の乱暴」/『芸能』1959年5月号

【遠山の金さん】

川田はその後も身体を気遣いながらも活躍を続けている。

1955(昭和30)年には、国際劇場で「舞台生活25周年記念特別公演」を開催。
年末からはダイナ・ブラザースとともに日劇の正月公演に出演している。
映画では、同じ新芸術プロの専属になった山茶花究と一緒に出演していることも多い。

ラジオ東京で続けていた歌謡漫談について、1956年から番組の担当ディレクターになった江間守一が回想している。

 唯、前任者から、川田は、ワンマンで好き嫌いがはげしい人だから気をつけるようにといわれていた。成程つきあって見るとワンマンである。出しものは、前回につづいて「遠山の金さん物語」なんだが、出演する役者さんも全部、川田が指名する。台本は木村一夫(故人)ときまっている。演奏は子飼いのダイナブラザース。これじゃ、ディレクターといっても、唯の使い走り。

 だが、その屈辱的な立場に立たされながら、やめてしまおうと思わなかったのは、川田の「間」というものに対する鋭いカンと、音程についてのきびしい耳、そして出来上がってくる番組の流れが、私にとって、すばらしい勉強になったからであった。日本古来の音曲と、当時最も新しかったロックや、ウェスタン、これをアレンジして、少しの違和感も与えなかった、彼の天才的な娯楽に対するセンスに、私はいつの間にか圧倒されてきていたからである。

江間守一「地球の上に朝が来なかった」/『望星』1991年3月号

川田が戦後入ってきた最新の音楽も熱心に取り入れ、自分のものにしているのがわかる。
このころ吹き込んだと思われるレコード「新々八木節」のサウンドからも、それは伝わってくる。

ところが10月、川田は京都での映画撮影中に倒れてしまう。
重度の腎臓炎だった。

有楽町のスタジオまで通えない川田に、江間は川田の自宅での収録を提案。
川田も江間の熱意と気遣いに感激し、これに賛成した。

これ以降、ラジオの収録は川田の自宅、通称「川スタ」で行われるようになった。
マイクアレンジや演奏者の配置などに工夫して、時にはいいタイミングで近所の犬の遠吠えが入るなど思わぬ効果があり、スタジオ以上ともいえる出来だったという。

しかし、1957年には川田の病状がさらに悪化し、3月末、厚生年金病院に入院する。
2ヶ月程で退院できると聞いた江間は、川田の入院中の代役を美空ひばりに頼めないかと提案した。

美空ひばりはすでに国民的スターとして休む間もない忙しさだったが、依頼を聞くとすぐに引き受けてくれた。
同年1月、ひばりが国際劇場で公演時、客から顔に塩酸をかけられる事件があった。
このとき、川田は病身をダイナ・ブラザースの鹿島に背負われて見舞いにかけつけたという。
川田とひばりは、厚い人情と強い絆で結ばれていたのだろう。

急遽、金さんが旅に出ている間「ひばり屋の小金」が登場するという台本を5週分用意し、京都で映画の撮影をしているひばりの元へ駆けつけた。

 私の手許には、五週分の台本、そしてひばりのせりふだけが書き抜かれてあった。待つ程もなく彼女が映画の衣裳のままで、スタジオへ現れた。そして私を見ると青い顔で「江間さん、川田のアニキは大丈夫?」といった。

江間守一「地球の上に朝が来なかった」

すぐに5週分のセリフを吹き込むと、「五週分で間に合わなかったら、私がとんで行くからね」と言い残し、ひばりはスタジオを去って行った。
ひばりの代役による最初の放送を、江間は川田とともに病院で聴いた。

 そして、川田節をひばりが歌った時、彼の嗚咽が病室一杯にひびいた。「あん畜生、うまくなりやがって」彼は、そういって泣いた。

江間守一「地球の上に朝が来なかった」

この時の放送の録音は、アメリカの都ホテルでの録音とともに『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』の特典CDに収められている。

【川田晴久の死】

残念ながら、川田はひばりの5週目の放送を聴く前に、1957年6月21日、この世を去った。

5週目を放送するはずだった時間には、急遽川田の追悼番組が放送された。
そこには益田喜頓や坊屋三郎も駆けつけたという。

 川田晴久をしのぶ

「遠山の金さん」は二十一日死去した川田晴久を追悼して、大阪から榎本健一、東京から美空ひばりがそれぞれ川田の思い出を語り、開局以来六年間、去る四月入院するまでは一週も休演したことがなかったという川田の残した膨大な録音テープの中から幾つかの歌を選び出して故人をしのぶ。

東京新聞・1957年6月22日

『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』特典CDには、師匠川田の思い出を語り、声を詰まらせる美空ひばりの言葉も収録されている。

 日本一のボードビリアンだった、偉大な川田のアニキから私は、歌の“いろは”を教えられました。「地球の上に朝がくるゥゥ」というあの川田ぶし。人びとの心に、いまも生きつづける庶民のメロディを、私は川田晴久という人によって、学ぶことができたのでした。

竹中労/『完本 美空ひばり』より、美空ひばりの言葉

日劇公演の楽屋で突然、川田の死を知らされたという柳家金語楼
あきれたぼういず以前からずっと、舞台に映画に何度も共演してきた先輩だ。翌日、同じ日劇の楽屋を訪ねた東京新聞記者に、川田のことを語っている。

 川田晴久の死を悼む金語楼

 川田君は、二十年前に“あきれたぼういず”を作って、ボーイズの元祖であるばかりでなく、芸人で彼ほどの芸の虫は少いですね。吉本以来いっしょに仕事を随分したけど、骨のくさった患部にガーゼをつめこみながら仕事を続けた精神力には頭がさがりました。身体がわるくなって休んでるときでも、オチオチと休まずに、他人の放送を熱心にきいている。もしも健康な人が川田君ほどの量見でガン張りゃあ大したもんですよ。

柳家金語楼/東京新聞・1957年6月22日

川田の胸中には、これから先の時代の中でやりたいことが、まだまだたくさんあったのではないだろうか。

それから5年後。
テレビで、川田の人生を描いた特別ドラマが放送された。
川田の役を演じるのはなんと、トニー谷
トレードマークのヒゲを剃り落として帽子を被ると、川田にそっくりだったそうだ。
坊屋や益田、有木山太も出演。
どんな番組だったのか、なんとも気になるところだ。

「ヒゲを剃り落としたトニー・谷:NET『かわだぶし物語』主演に張り切る」
川田晴久が亡くなってすでに五年、命日の六月二十一日が近くなった。生前の彼の仲間であった坊屋三郎、益田キートン、鹿島密夫ら親しかった放送関係の人たちは、毎年命日ごとに多摩墓地の彼の墓にお参りしたあと、富美子未亡人をかこんで故人をしのんでいた。そしていつか盛大に彼の追悼公演をやるプランをたてていた。それがこの五回忌を前に実現、十八日にNETから、川田晴久の半生を描いたテレビドラマ『サンデー劇場・かわだぶし物語』として放送されることになり、川田晴久にトニー谷が扮し、ヒゲを剃りおとしたというわけ。

週刊平凡/1961年6月21日号

筆者は当時の新聞を追っていく中で、川田の常に衰えることない人気ぶりや存在の大きさを改めて思い知らされた。
入院や治療で何度も活動休止せざるをえない中でも常に大衆に求められ続け、そしてその才能と執念ともいうべき芸への熱意でそれに応えた彼の功績は、もっと評価され語りつがれていくべきだろう。

▲『川田晴久歌謡集』より、川田と美空ひばりやダイナブラザース、田端義夫

【ボーイズ協会】

戦中、一度は消えたかに思えたボーイズだったが、戦後は戦前のグループの復活や、新しいボーイズの出現でめざましい再興を遂げていた。
川田亡きあと、ダイナ・ブラザースのメンバー達も独立して自分たちのボーイズを結成し、川田の芸を継承していった。
テレビの寄席番組ブームもあり、1960年代は戦前を凌ぐボーイズ全盛時代だった。

ボーイズが続々と出現、活躍していく中で、1956(昭和31)年、「歌謡漫談(ボーイズ)研究会」を組織し結束しようという動きがあった。
会長には川田が就任するはずだったが、惜しいことに研究会発足を目前に入院、逝去のため実現しなかった。

それから12年後の1968(昭和43)年、「東京ボーイズ協会」の名前でようやくそれが実現した。
今のボーイズ・バラエティ協会である。
初代会長は歌謡漫談の元祖・柳家三亀松が就任。
浅草花月劇場の主とも言われた、あきれたぼういずの大先輩だ。

あきれたぼういずは解散し、川田は旅立ってしまったが、ボーイズは戦前以上の盛り上がりを見せていた。


【参考文献】
『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』橋本治・岡村和恵/中央公論新社/2003
『川田晴久読本』池内紀ほか/中央公論新社/2003
『完本 美空ひばり』竹中労/筑摩書房/2005
『東京漫才全史』神保喜利彦/筑摩書房/2023
「地球の上に朝が来なかった」江間守一:川田晴久/『望星』1991年3月号/東海教育研究所
「アメリカ人の乱暴」尾崎宏次/『芸能』1959年5月号/芸能発行所
「ヒゲを剃り落としたトニー・谷:NET『かわだぶし物語』主演に張り切る」/『週刊平凡』1961年6月21日号/平凡出版
東京新聞/東京新聞社


(次回6/9)山茶花のその後

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