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(69)解散の謎/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1953年、テレビ放送が始まると、あきれたぼういずや川田晴久、有木山太もさっそく活躍していく。しかし、あきれたぼういずはまもなく解散することとなる。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【解散はいつか?】

結成日がはっきりしないのと同様、あきれたぼういずの解散時期も、いまいち判然としない。
1951(昭和26)年に解散した、としている資料が多いようだが、これはおそらく、坊屋の発言が元となっている情報だろう。

 戦後に結成した『あきれたぼういず』は、昭和二十六年に発展的解消をしましたが、これを提案したのはあたしです。
 理由は、ケンカ別れでもなんでもない、みんなそれぞれに一本立ちしてもりっぱにやってゆけるという見通しが立ったから、ひとつこのへんで自由な“己れの道”をゆこうではないかとなったわけだ。だから“発展的解消”なんでス。
 実際のところ、その後、益田喜頓も山茶花究も舞台や映画で大いに活躍してますョ。

坊屋三郎/『これはマジメな喜劇でス』

坊屋は、渡米公演から帰国後「ハワイ珍道中」(1951年3月)の公演を最後に解散したとしている。

しかし、ここまで見てきたように、「ハワイ珍道中」以後も浅草花月劇場や帝国劇場、そしてシブヤ東宝や日劇で「あきれたぼういず」として舞台に立っており、映画やラジオにもグループで出演している。
グループ名を冠したラジオのレギュラー番組「あきれた世界旅行」は1952年に放送しているし、「ひよどり草紙」をはじめグループ出演した映画も多数ある。
「解散」しているとは捉えにくい状況だ。

では、いつを「解散」と捉えるべきだろうか。

【当時のデータ資料からみる解散】

各メンバーの情報が掲載されている、当時の『文化人名録』(著作権台帳)を順を追って見ていくと、解散までの動きが大まかに掴める。

まず、「昭和二八年版」(=1953年)の『文化人名録』で、山茶花、坊屋、益田のページを確認すると、三人とも「(勤)あきれたぼういず」と記載がある。
(勤)は「勤務先又は役職名」を表す。
現在進行形で「あきれたぼういず」として活動しているという認識だろう。
連絡先は三人とも灰田勝彦事務所となっている。

次の「昭和三〇年版」(=1955年)(※1年おきに出版しているわけではないようで、二九年版はない)をみると、
坊屋、益田は変化がないが、山茶花の情報だけ「(勤)あきれたぼういず」から「(前)あきれたぼういず」になっている。
(前)は「前職、略歴」のことであり、つまりあきれたぼういずを辞めていることになる。

さらに「昭和三一年度版」(=1956年)では、山茶花の連絡先が灰田勝彦事務所から「新藝プロ」に変わっている。
川田が設立に携わった、新芸術プロダクションに移籍しているのだ。
新芸術プロダクションの項(note(65))で引用したように、1954(昭和29)年にはすでに新芸プロ専属になっているので、少し情報更新までタイムラグがあるようだ。

そして「昭和三二年度版」(=1957年)。
坊屋と益田のページも(勤)から「(前)あきれたぼういず」に変わり、完全に「あきれたぼういず」は過去の経歴という扱いになっている。(※“連絡先”は記載なし)

また、1955(昭和30)年3月の『キネマ旬報増刊日本映画大鑑映画人篇』で坊屋のプロフィールを見ると、すでにあきれたぼういずが解散したと説明がされている。

二五年渡米。最初の中はあきれたぼういず三人組で出演していたが、実演劇場縮小と共に映画出演の機会多く、脚本の都合上三人組が個々に出演する方が多くなって、あきれたぼういずも自然発展的に解消、現在となる。

これらの資料を総合すると、あきれたぼういず解散は1953年以降、まず山茶花が移籍し、徐々に自然解散した……という流れにみえる。

ただし、先述のように坊屋本人が解散を提案したと話しているということは、どこかで解散を決めたタイミングがあったのだろう。
「ハワイ珍道中」の頃には、すでに解散を決めていたのだろうか。

山茶花が、あきれたぼういずが解散したとき「ギターをたたきこわした」ともらしたという話もある(矢野誠一『さらば、愛しき芸人たち』)。
すでに個人での活躍も多く、実力も認められていたはずで、少し意外な感じがするが、それだけ「あきれたぼういず」を大切に思っていたのだろう。
そして、これもどこか「解散」を決めた区切りがあったと思わせるエピソードである。

益田は戦後のあきれたぼういずについて、

再びあきれたボーイズをやってみましたが(昭和二十一年)芝利英は戦死していましたし、世相が全く変わってしまっております。

『キートンの人生楽屋ばなし』

と書いている。益田としては芝の不在と時代の変化とが、解散の決め手だったようだ。

【最後の舞台】

あきれたぼういずがグループとして活動したのはいつまでか、次は当時の東京新聞演芸面を見て考察してみたい。

ラジオでは、1953年5月19日放送の「陽気な喫茶店」(JOAK)にグループで出演しており、これが確認できる最後のものだ。
放送台本が国会図書館で閲覧でき、あきれたぼういずのテーマ曲とともに登場、アナウンサーにも「あきれたぼういず」として紹介されているのがわかる。

映画だと1953年2月公開の映画「恋人のいる街」に三人で出演しているのが最後のようだ。
この映画の新聞広告でも「あきれたぼういず」と表記されている。

東京新聞・1953年2月21日

舞台では、1952(昭和27)年3月20日からの日劇「春のおどり」出演が、通常の舞台公演としては最後のもののようだ。
この公演以降、東京新聞で確認できるのは越路吹雪の渡仏歓送ショウ、さよならターキー公演などの特別な記念興行のみで、こうしたときだけ特に集まっていた様子だ。

「日劇春のおどり」パンフレットより/1952年3月20日

あきれたぼういずとして最後の舞台もやはり特別な公演で、伊藤謙三郎の追悼公演である。
伊藤は、あきれたぼういずや灰田勝彦のマネージャーをしていた人物で、「ライオン」の愛称で芸能界でも名物的存在だったそうだが、1953年2月に自動車事故で急死。

「ライオン死す」
灰田勝彦やあきれたぼういずのマネージャーをやっている伊藤謙一郎(謙三郎の誤字か)は「ライオン」の愛称で芸能界で名物男だったが、そのライオンが大阪で四国に出発する灰田を見送ったあと、京都へメータクで向う途中枚方でトラックと衝突して死んでしまった、急を聞いて四国から灰田が便りをよこしたが、それにいわく「虎は死んで皮を残すが、ライオンが死んで何を残したか……」

東京新聞/1953 年3月5日

伊藤謙三郎マネージャーの追悼公演「ライオンショウ」は、8月31日・9月1日の2日間浅草国際劇場で行われ、
灰田勝彦・晴彦兄弟やあきれたぼういずのほか、笠置シヅ子、古川ロッパ、ディック・ミネ、そして川田晴久とダイナブラザースらも出演している。

国際劇場「ライオンショウ」広告/東京新聞・1953年8月18日

以降、半年先までの東京新聞を確認してみたが、あきれたぼういずの舞台活動は確認できなかった。
さらに先まで、また、東京以外の地域についても調べていきたいところだが、現時点でわかった限り、この追悼公演が「最後のグループ活動」といえる。
そして、マネージャーの伊藤氏の急死が、あきれたぼういず解散のひとつのきっかけにもなったのではないかと思う。

以上の資料からは、あきれたぼういずの解散は1953年、最後の活動は9月1日と考えられる。
つまり、戦前期より戦後期の活動期間のほうが長かったことになる。

1937(昭和12)年、日中戦争の開戦と同時に誕生したあきれたぼういずが、占領下の時代が終わり、テレビ放送が始まった1953(昭和28)年に解散しているというのは、どこか象徴的な感じがする。
戦時下、占領下の激動の中、人々を笑いと音楽で励まし、癒し続けてきたその役目が終わったかのように……。

これから、ストリップ劇場から脱線トリオや渥美清といった新たなコメディアン達が生まれ、
進駐軍キャンプを回るジャズバンドであったハナ肇とクレージーキャッツがテレビで人気を呼び、一世を風靡していく。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
『キートンの人生楽屋ばなし』益田喜頓/北海道新聞社/1990
『さらば、愛しき芸人たち』矢野誠一/文芸春秋/1985
『キネマ旬報増刊日本映画大鑑映画人篇』1955年3月/キネマ旬報社
『文化人名録』「昭和二八年版」「昭和三〇年版」「昭和三一年度版」「昭和三二年度版」/日本著作権協議会/1953〜57
『陽気な喫茶店:蚤の市 212』/大島得郎/NHK/1953年5月19日放送
東京新聞/東京新聞社


(次回6/2)エピローグ①川田のその後

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