見出し画像

(65)マダム貞奴/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1950年、川田やあきれたぼういず達は渡米公演を果たした。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!


【浅草花月劇場が復活】

1946(昭和21)年秋に舞台興行をやめ、洋画専門の映画館「浅草グランド」になっていた浅草花月劇場だが、1951(昭和26)年から再び実演系の劇場に戻り、名前も浅草花月劇場に戻して復活。

復活第一回公演が50年大晦日初日「初笑い珍道中」。
そして2月28日からはあきれたぼういずが出演、渡米土産の「ハワイ珍道中」を上演している。

浅草花月劇場広告/東京新聞1951年3月1日
浅草花月劇場公演パンフレット

坊屋や益田が花月の舞台に立つのは、1939(昭和14)年の引抜き騒動以来のはずで、実に12年振りである。
3月も引き続き出演、10日から「春の歌まつり」、19日から「西部珍道中の巻」、ひと月空いて5月11日から「陽気なホテル」を上演している。

【マダム貞奴】

6月6日からは、帝国劇場の「マダム貞奴」にあきれたぼういずが出演。
第一回として上演した音楽劇「モルガンお雪」が好評で、第二弾として企画されたものだ。
主演(貞奴役)越路吹雪の相手役(川上音二郎役)を山茶花究が務めた。

当時すでに売れっ子だった越路は、初日の幕が開く一週間前の5月31日に宝塚から上京して漸く舞台稽古に参加。
あきれたぼういず三人は初日の2日前、6月4日に巡業から帰京して稽古入りという慌ただしさだった。

パンフレットを見てみると、オッペケペ節の流行からアメリカ、パリを巡る旅まで、川上貞奴と音二郎の足跡を元にした物語ではあるが、上演当時の「今」のエッセンスを盛り込み大きくアレンジしているようだ。
特に当時流行のストリップを随所に取り入れているところは、気品高き帝国劇場のイメージからすると意外な気もする。
当時いかにストリップの人気が凄かったかがわかる。
パンフレットでも一ページに一人ずつ、ほとんど裸同然のストリップ衣装を身に纏ったストリップダンサー達の写真が大きく掲載されている。

 壮士芝居の面影をも現代に再現しようというので、帝劇では時事問題を扱った「昭和オッペケペー節」を公募して毎日歌わせようということになったが、採用の分には二千円の謝礼を出し街の風刺家のチエを借りようとの新企画を立てている

東京新聞/1951年6月5日

山茶花は越路とともにほとんど出ずっぱりで活躍、基本的には音二郎役だが、劇中劇で弁慶やお蝶夫人の領事役を演じる場面もある。
坊屋と益田は物語のさまざまな場面に、いろいろな役で登場している。
パリの博覧会のシーンでは、サーカスの一景として三人で「あきれたショウ」もやっている。

「マダム貞奴」プログラムより

第1次あきれたぼういず時代に一度、帝劇出演のプランがあったが結局実現しなかった。(29参照
帝劇でのあきれたぼういず公演が13年越しに実現したわけだ。

上演直後の新聞評では「遺憾ながら失敗作である」とあるが、公演中にもどんどん内容を直しており、その甲斐もあってか7月も続演している。

 帝劇の「マダム貞奴」は六日から返り初日を出したが、このためにも一日とて休まぬため脚本執筆、大道具製作、舞台ケイコなど一才が公演の合い間を縫ってやるのでテンヤワンヤ、まず第二部は十五景を全部新作に直したので、大道具も五ハイを製作、係の老人が「卅年やってるがこんなことは初めてだよ」と言っている
 坊屋三郎、益田喜頓、山茶花究らは「ロングランって言うが、こう毎日訂正、書き足しが続くと日の立つのが分らねえ」とキョトン、場所が帝劇のせいか浅草ファンは見にくるけれど怖がって楽屋までは来てくれぬという話である…

東京新聞/1951年7月7日

翌1952(昭和27)年3月にも、益田が帝国劇場の公演「美人ホテル」に出演している。


【吉本興業を離れて】

『実録 神戸芸能社』によれば、復帰後しばらくして川田は吉本興業を離れ、山口組興行部の所属になっている。
当書によれば、病気で倒れて絶望的な状態の中、吉本興業に見放された川田をみかねて、山口組三代目・田岡一雄が興行部に引き取ったという事情になっている。

山口組は吉本興業と縁の深かった組であり、1939年の引き抜き騒動のときも暗躍するなど、吉本の用心棒のような存在だった。
また田岡一雄は演芸興行に熱心な人物で、のちに山口組興行部を独立させ神戸芸能社を設立している。
美空ひばりも、この神戸芸能社に所属した時期があり、川田と田岡の関係が、美空に繋がっていったわけだ。

 山口組の背後には東宝系の「吉本興業」があり、籠寅は松竹系の「新興キネマ演芸部」につながっていた。芸能界とヤクザとの関係は、こうした興行資本のヒエラルキー(権力段階)と深いかかわりを持っている。そのことを、まず理解しなくてはならないのである。

竹中労/『完本 美空ひばり』

吉本興業を離れた正確な時期は不明だが、1950(昭和25)年3月号『青春タイムス』の中の「ターキーと新聞記者の恋」という記事の中で、ターキーとの恋仲を噂される新聞記者と川田の間に以下のような会話が交わされている。

 「君は、今度吉本と契約解除したそうだね?」
 「うん」
 「円満解決か?」
 「もちろん。関係方面へ挨拶状を配るよ。吉本興行と連名でね。確かなもんだ」

となると、吉本を離れたのは渡米の数ヶ月前ということになる。

『実録 神戸芸能社』の中では、川田は療養中ペニシリンを届けてくれた興行師・吉野功に宛てた礼状の中で「芸人を平気で使い捨てる吉本興業への怨嗟」を綴っている。
しかし、渡米の際には林弘高が羽田空港へ見送りに来てくれている。

また、『青春タイムス』の記事の中では、川田が林弘高の声帯模写を披露して驚かせるシーンも登場する。
『実録 神戸芸能社』で描かれるほどひどい別れ方ではなかったのか、あるいは吉本への怨みはあれど「オヤジ氏」こと林弘高との関係はまた別、というわけだろうか。

【新芸術プロダクション設立】

1951(昭和26)年5月、川田はひばりやダイナ・ブラザースとともに、山口組興行部が企画した大阪球場「歌のホームラン」に出演。
日本初の野外音楽イベントとも言われ、ほかに近江俊郎、岡晴夫、田端義夫の“戦後三羽烏”や灰田勝彦、淡島千景など錚々たるメンバーが出演している。
川田とダイナ・ブラザースはトラックの荷台部分をステージにした特製オープン・カーで入場。

そして6月には、福島通人(つうじん)とともに「新芸術プロダクション」を設立。
福島は川田がひばりと出会った頃、横浜国際劇場の支配人をしていた人物で、戦前は親戚である旗一兵の伝手で吉本に入社し、浅草花月で支配人をしていたこともあるので、川田とも馴染み深い人物だ。

3年後、1954(昭和29)年の『キネマ旬報』(春の特別号)によると、代表取締役が福島通人、取締役が加藤キミ(ひばりの母、喜美枝のことだろう)、川田晴久、田端義夫、斎藤寅次郎、児玉博。ほかに重役として名を連ねているのが南亘、金田福太郎(旗一兵)である。

同じく当時の専属芸人は、美空ひばり、堺駿二、丹下キヨ子、山茶花究、白根一夫、星十郎、石田守衛、楽団レッドスタアズ、ダイナブラザース。

芸能マネジメントのほか、新東宝や松竹とともに映画製作も行なっている。


【参考文献】
『完本 美空ひばり』竹中労/筑摩書房/2005
『実録 神戸芸能社』山平重樹/双葉社/2009
『キネマ旬報』1954年春の特別号/キネマ旬報社
「ターキーと新聞記者の恋」花村欣也/『青春タイムス』1950年3月号/弘和書房
東京新聞/東京新聞社


(次回5/5)民法ラジオで活躍!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?