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(68)テレビの時代/あきれたぼういず活動記

前回までのあらすじ)
1951年にラジオの民間放送が始まる。あきれたぼういず達は、舞台や映画だけでなくラジオでも活躍していた。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!


【テレビ出演】

1953(昭和28)年、いよいよ日本でもテレビ本放送が始まる。
まだまだ放送時間も短く、番組も少ないが、あきれたぼういず達は早くから出演を果たしている。

NHKが日本初のテレビ本放送を開始したのが2月1日。
しかし、それ以前から東京新聞にはNHKテレビの番組表が掲載されているので、放送はやっていたのだろう。

1月24日午後8時から放送の演芸番組に益田喜頓が出演、旭輝子と漫才「君は天才だ」をやっている。
次いで7月7日、午後8時からミュージカル・レビュー「国境の南と北」に有木山太が出演。

東京新聞テレビ欄・1953年1月24日

8月28日には日本テレビが放送開始。

早速、8月30日には午後8時から「新派迷作集」という番組に川田晴久とダイナブラザースが出演。
演目は「フルーツ系図」、永田とよ子が歌を添える。

この「新派迷作集」は以降日曜日に放送され、9月6日には坊屋三郎と山茶花究も出演。
共演者は丹下キヨ子、東富士勇、演目は「ほととぎす」。
9月13日には番組名が「珍派迷作集」と少し変わり益田が出演、共演は吉田美穂子、演目は「珍十六夜清心」。
10月4日にも再び益田が出演、「天国街道」を演っている。

「あきれたぼういず」グループとしての出演はなかったのだろうか。

テレビ欄に名前こそ載っていないが、一度、グループでブラウン管に映ったのではないかと思われる放送がある。

6月6日から、水の江瀧子の舞台引退記念公演「さよならターキー」が国際劇場で催され、これを10日午後7時30分からNHKテレビで中継している。
そしてこの「さよならターキー」には、あきれたぼういずが揃って出演しているのだ。
出演者も多く、あきれたぼういずの出番がどのくらいあったのか分からないが、1時間の中継放送中、どこかできっと映ったのではないだろうか。

「さよならターキー」公演広告/東京新聞・1953年6月4日
東京新聞テレビ欄・1953年6月10日

そしてこれが、日本では最初で最後の「あきれたぼういず」としてのテレビ出演だろうと思われる。
(1950年の渡米時にアメリカで出演している。▶︎(64)参照
テレビの時代と入れ替わるように、あきれたぼういずは「解散」したのだ。


【戦後トピック】

あきれたぼういずの解散については次回詳しく書くので、
ここまでのnoteで書ききれなかった戦後のトピックをいくつか。

◆親子・師弟

 《坊や誕生》
1944年に二度目の結婚式を挙げた坊屋だが、第一子誕生が新聞でも祝われて(?)いる。

坊屋に坊やが生れて
あきれたぼういずの坊屋三郎は、日劇ダンシングチーム出身の高宮千代子と結婚以来六年になる、ところが名前は坊屋だがいまだに坊やができなくてさびしがっていたが、最近男の子が出生し、樹一(ミキカズ)と命名、チビの父親とちがって目方は九百匁もあるし、髪はフサフサ

東京新聞・1949年4月2日

 《益田の親子共演》
一方益田は、映画での親子共演が話題に。
「親子や姉妹がスクリーンで競演」と題した記事に取り上げられている。

映画界に親子や姉妹の共演が大流行……まず親子共演では、新東宝が目下撮影中の「窓から飛び出せ」にプロデューサー兼主演の大日方伝が四人の子供といっしょに出演しているし、次いで同社が近く撮影開始する斎藤寅次郎監督の「スピード夫人」で益田喜頓が一人娘の英子(一一)ちゃんと共演する
英子ちゃんは本名増田房枝でバレエの小牧正英の弟子だが、恩師の名前の英の字をとって英子と芸名をつけて、無論今度が初出演
…(略)

東京新聞・1950年2月26日
東京新聞・1950年2月26日

「スピード夫人」は「戦后派(アプレ)親爺」と改題して公開され、有木山太ほか喜劇陣も豪華出演している。

 《川田とひばり》
川田と美空ひばりの師弟エピソードも、時折新聞で取り上げられている。
東京新聞・1952年11月15日には、ひばりがお好み焼きに凝っているとの話が。
これは川田に勧められたのがきっかけだそうで、大人の二人前くらいぺろりと食べてしまうのだとか。
東京新聞・1953年5月7日には、ひばりの誕生日を川田や伴淳三郎などで盛大にお祝いしたエピソードも。
なんとも微笑ましい。

◆舞台と映画

 《あきれた昆虫記》
個人でもグループでも日劇出演の多い戦後あきれたぼういず。
1949(昭和24)年9月6日初日の「あきれた昆虫記」はタイトルでわかるように、あきれたぼういずの三人を主役にした音楽ショウだ。

「あきれた昆虫記」公演パンフレット

三人がアリやキリギリス、バッタ、コオロギなどの虫になり、昆虫の世界を描いている。
構想は、製作の佐久間茂高が、戦時中から考えていたもの。

 秋の季節になつたら、シリイシムフオニイの様な形式で、“虫の生活”をとりあつかつたショウを作りたいと思つていた。
…(中略)…
 シンフオニツクジヤズのきく音楽団の編成のほかに、日本楽器も使つて、ダンシングチームとバレエチームと、奇術や曲芸の要素をとりいれたボオドビリアンで編成した出演者が、舞台ぢゆうをかけまわるのである。
 ――そんなとほうもないことを考えたことがあつた。空襲警報におびえながらいた時のことである。

佐久間茂高「初秋の告白—製作手帳—」/「あきれた昆虫記」公演パンフレット

公演パンフレットには「あきれた・ぼういずの生態」として稽古中の様子も書かれている。
日劇パーラーで熱心に台本を研究している三人。
徹夜でギャグを考えた翌日でふさぎこんだ様子の山茶花、
一方坊屋は「やあ」と声をかけるとすかさず「コンチュウわあ」と答える元気な様子。
益田は「ちょいと昆虫づきましてね」とスイカばかり食べているという。
それぞれに芸熱心だ。

レヴュー評
日劇ショウ…あきれたぼういずを中心に構成した「あきれた昆虫記」十二景は、場面ごとに清潔で小味にまとまった作品だがアッピールする迫力が不足、こん虫の世界で魂を売る話を持出したあたり興味をひくが、われわれの現実をえぐるところまでは行けなかった、構成振付(野口善春)は後半がよく第六場月の広場で、バレエとジャズを対比させた点をとる、十八日まで

東京新聞・1949年9月13日

 《笑う地球に朝が来る》
川田主演の大映映画「笑う地球に朝が来る」(1950年)は、「下積から目が出た四人組の芸人が、スタア格(川田晴久)の慢心から仲間割れするが、友情のお陰で晴れの舞台へ復活する」というあらすじ。
新聞評は「変り栄えのしない話」だと低評価だが、あきれたぼういずの引き抜き騒動のifストーリーのようで気になる。

東京新聞・1950年1月12日

 《天狗の源内》
1953年公開の東宝映画「天狗の源内」は、山茶花の、おそらく最初で最後の主演映画。
戦時中、森川信の一座で「白野弁十郎」を演じた山茶花だが、
この映画もシラノの舞台を田舎の旅一座に置き換え、鼻の大きな男・源内の悲恋を描いている。

東京新聞・1953年2月24日

◆野球エピソード

 《灰田あきれたチーム》
戦中に坊屋が灰田勝彦の歌謡ショウの司会をしていた縁か、戦後あきれたぼういずは灰田兄弟との共演が多い。
(所属事務所も一緒だったようだ。)

灰田勝彦といえば野球好きで有名だが、彼の野球エピソードにあきれたぼういずもよく顔を出している。
1948年9月25日には、有楽座出演中のエノケン一座チームと日劇出演中の灰田・あきれたチームが日比谷公園で野球試合を開催。
このときはエノケンの応援に張り切ったエノケンチームに逆転負けしてしまった。

灰田は日劇の舞台でも、フィナーレでサインいりのボールを客席にバットで飛ばすサービスをやっていたそうだ。
同年10月5日には府中刑務所を訪れ、灰田・あきれたチームと囚人チームの試合をやっている。

灰田の野球狂
野球狂の灰田勝彦は、日劇の「ジャングルの女王」のフィナーレに舞台から毎回サイン入りの軟式野球ボール七◼︎をバットで客席にカッ飛ばして悦に入っていたが、同公演終了後の五日は午後一時からあきれたぼういず達と府中刑務所に乗込んで囚人チームと野球試合をやる、これを聞いて小菅を始め各刑務所から試合申込みが殺到、灰田苦笑いして「シュウジン環視の野球はつらいね」

東京新聞・1948年10月5日

 《寅さんチーム》
1951年7月1日の東京新聞には、斎藤寅次郎監督の野球好きエピソードも。
「寅さんチーム」のトラの顔の入ったユニフォームをスタッフや出演者に着せては試合をしていたようで、
この時撮影中の新東宝映画「歌くらべ荒神山」に出演していた川田やキドシン、そして広沢虎造まで試合に駆り出されてフーフー言っていたようだ。
寅さんチームにはその後、坊屋や益田も参加している。


【参考文献・ウェブサイト】
東京新聞/東京新聞社
日本劇場「あきれた昆虫記」公演パンフレット/1949年9月6日
天狗の源内 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)


(次回5/26)あきれた解散の謎

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