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(67)有木山太の活躍/あきれたぼういず活動記

前回)のあらすじ
1951年に民放ラジオが始まり、あきれたぼういずや川田らもレギュラー番組を持つなど以前にも増した活躍をみせる。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

民放ラジオ開始以降、有木山太の活躍ぶりはめざましく、彼一人であきれたぼういず三人に勝るとも劣らないほどである。
今回は、前回noteの続きとして有木のラジオ出演をまとめた後、後年までの彼の活躍ぶりを追ってみたい。


【民放ラジオでの活躍】

◆「コロムビア・アワー」(CBC:新日本放送/NJB:中部日本放送)

1951年9月1日から、東京に先駆けて大阪・名古屋で民間放送が始まった。
音楽番組「コロムビア・アワー」では、有木が司会を務めている。
大阪、名古屋両方の番組表に記載されており、両方で放送した模様。

◆「耳よりクイズ」(NCB:文化放送)
土曜午後9時15分〜
1952年7月12日、7月26日 2回分出演確認

ほか出演は浜田百合子(1回目)、市村俊幸、岡譲二(2回目)。

◆「日本意外史」(JOKR:ラジオ東京)
木曜昼0時30分〜
1952年7月24日(第3回)〜9月25日 3回分出演確認
ほか出演は楠トシエ。

◆「底抜け大放送」(NCB:文化放送)
土曜午後7時40分〜(→午後8時〜→8時30分〜)
1952年10月11日(第2回)〜1953年3月28日

ほかにレギュラー出演は有島一郎、八波むと志、柳文代。

有木の名前が確認できたのは10月11日の第2回放送「笑いの爆弾」からだが、逆算して10月4日が初回放送日か。
第3回放送の際のラジオ欄に番組紹介があり、どうやら社会問題を取り上げたバラエティ・ショウ番組のようだ。

「国際色オンパレード」(10月18日放送)
牧嗣人氏をゲストとして、街娼問題、混血児問題、就職問題等々、社会風刺のヴァラエティ・ショウ、最後に聴取者から募集した風刺コントが紹介される

(東京新聞・1952年10月18日)

◆「続歌謡五十年史・弥次喜多歌栗毛」(NCB:文化放送)
牛乳石鹸提供
金曜午後8時〜
1953年1月2日〜7月3日(最終回)

霧島昇がレギュラー出演した「歌謡五十年史」の続編のようだ。
有木が弥次さん、声帯模写を得意とした芸人の大久保怜が喜多さんで日本各地から世界各国、果ては天国や地獄などを旅して、その地にちなんだ歌と音楽を届ける。
ほか、歌手の榎本美佐江がレギュラー出演。
「思い出の上海」の回ではリルの役をやったとあるので、放送回ごとにいろいろなヒロインに扮していたのだろう。

◆「紅白クイズ合戦」(映画紅白とんちクイズ)(NCB:文化放送)
土曜午後7時15分〜
1953年2月7日、14日の2回分確認

芸能人が紅白に分かれて映画クイズで争うクイズ番組で、司会が牧野周一。
白組メンバーは柳家金語楼、杉狂児、有木。
紅組は浜田百合子、羽鳥敏子、伏見和子。
当時はクイズブームで様々なクイズ番組が企画されていた。

◆「恋愛バイブル」(NCB:文化放送)
木曜午後7時40分〜
1953年7月2日(初回)〜9月24日(14章)

ほかに宮城まり子、大東良一。

◆その他特別番組など
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効され、7年にわたる占領下の時代が終わった。

その記念番組が5月3日9時10分からラジオ東京で放送されており、これに有木も出演している。
タイトルは「地球の東に朝が来た」。
川田節の名フレーズ「地球の上に朝が来る」をもじったものだろう。
上山雅輔構成・演出、有木のほか出演は久慈あさみ、大泉滉、坂本武、杉狂児、杉葉子、神楽坂はん子など。

1952年8月27日から、日劇で開催された民間放送開始一周年記念ショウ「日劇大放送」にも出演。
9月3日からは名前を「ラジオは躍る」に変えて毎日ちがった番組のショウをやっており、有木は3日「明色歌謡ゲーム」(桃谷順天館提供)に灰田兄弟と出演している。

東京新聞1952年8月26日

1953年3月11日から、こんどは「NCB開局一周年記念」のショウ「春の大放送」が日劇で開催されている。
有木は13日「続歌謡五十年史・弥次喜多歌栗毛」の回に出演。

東京新聞1953年3月10日

【私はシベリアの捕虜だった】

1952年に公開された映画「私はシベリヤの捕虜だった」は、シベリア抑留の捕虜生活を描いた映画で、監督の田口修が映画会社に頼らずスタッフや出演者を集めて製作した。
スタッフにも出演者にもシベリア経験者を多く起用しており、有木山太も出演している。

北海道でシベリアに似た景色を探し、収容所のセットを建てて撮影。
しかし撮影中に繰り返し妨害に合ったり、公開の許可がなかなか下りなかったりと難航。
このままでは国内での封切は困難かもしれないとも報じられた(東京新聞・2月15日)

4月3日から東宝系で無事に封切られ、ちょうどあきれたぼういずが出演中だった日劇でも上映されている。
内容は引き揚げ促進の狙いが強いものとなっており、「露骨な扇情味を少くして割合客観的に素材を扱おうとしているのが取柄である。」(東京新聞・4月5日)と評されている。

フィルムが無くなり幻の映画と言われていたが、のちにアメリカで発見され、DVD化されている。

東京新聞・1952年3月31日
あらすじが掲載された、1952年3月20日初日「日劇春のおどり」パンフレット

【有木の活躍とその後】

迫り来るテレビ時代に活躍しそうな芸能人について、本放送直前の読売新聞では「歌って芝居が出来る芸能人は引張り凧」といった記事を出しており、その一人として有木の名前も挙げられている。

すでに歌えて芝居が出来、アコーディオン、ピアノからちょっとした作曲までこなせる有木山太は某社との専属契約が進められているという噂さえある。

読売新聞・1953年1月26日

まさにこの記事の通り、有木はテレビにも重宝され、ラジオや舞台でも相変わらず忙しく活躍する。
加えて1953年、作曲家としても本格的に活躍し始めることが報じられている。

 有木山太が歌謡作曲者として出発

軽音楽のコメディアン川田晴久が義雄と名乗って第一期アキレタ・ボーイズ結成の時に共にスタートし、今日では映画と司会者とラジオと、いろいろな活躍をしている有木山太が、近く歌謡曲の作曲者として本格的な活動をすることになった
 もっとも彼の作品は昨年、戦前二三のテスト、戦後レコードでは平尾礼子の「おぼろ月夜」織井茂子の「君呼ぶビギン」ラジオではABCの「弥次喜多」文化の「物知りおじさん」等にも登場、一応の仕事はしていたが野口清の本名、または匿名でばかりであった
 が近く石本美由起の作詞による「十五夜物語」に初めて有木山太で登場、これを機会にこの方面で新分野を開こうということになった

東京新聞・1953年1月14日

ミルク・ブラザース時代にも有木山太名義で「銀座新装」(歌・一色皓一郎)を出しているが、
この記事にあるように戦後も「君呼ぶビギン」(歌・織井茂子、本名の野口清名義)やラジオの番組内の音楽を手がけていたようだ。

さらに後年、1967(昭和42)には「惚れちゃっちゃ愛しちゃっちゃ」(歌・松山恵子)を、平岡秀笛というペンネームで作曲している。

秋には家を新築。その活躍ぶりがわかる。

「新築競争」
ラジオやテレビでかせいでいる有木山太が、目黒区宮前町に自宅を新築中、その近くに住んでいる宇野重吉の家より立派で何しろ風ろ場はタイル張りでね、と自慢していたら、今度は宇野が近くに新築にかかり建築費用は有木の倍近くと聞き、有木がタメ息をついて「やっぱり映画スターにはかないません」

東京新聞・1953年10月22日

のちに、ご近所付き合いをする間柄となった前田武彦は有木について
まるで芸能界一年生のようにおとなしい。」「ホームドラマに出てくるパパさんみたいに善良な人だ。」と書いている(『主婦と生活』1963年1月号)。

テレビドラマなどで活躍したが、『日本映画俳優全集男優編』(キネマ旬報社)によれば、60年代後半には身体を悪くしてしまったのを機にCM以外の芸能活動を控え、油絵に専念していたそうだ。


【参考文献】
「お笑いスター無責任交友録」/『主婦と生活』1963年1月号/主婦と生活社
「日本映画俳優全集男優編」/『キネマ旬報』1979年10月23日号/キネマ旬報社
東京新聞/東京新聞社
読売新聞/読売新聞社


(次回5/19)テレビ放送開始

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