(61)川田の渡米①/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
奇跡の再起を果たした川田は、ダイナ・ブラザースを結成、さらに美空ひばりと出会い彼女を売り出す。そして芸名を川田晴久に改めた。
有木山太もシベリアから復員してきて舞台に活躍する。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【川田と美空ひばりの渡米】
舞台にラジオ、映画出演と忙しく活躍していた川田は、1950年1月、過労で倒れてしまう。
復帰したとはいえ、無理はできない身体だ。
しかし川田はこのとき、アメリカ旅行のプランに期待をふくらませていた。
美空ひばりと川田の元へ、日米キネマから渡米公演の誘いがきていた。
まだアメリカ占領下の日本では、渡航手続きが難航したようだが、5月にはいよいよ渡米が実現。
14日には二人で「渡米記念・歌と御挨拶」として新宿・浅草・銀座の松竹直営館を回っている。
そして16日の朝8時半、家族や芸人仲間たちが見送る中、羽田空港を出発。
川田、ひばり、ひばりの母、三人きりでの渡米だった。
(同じ飛行機で「憲政の神様」と言われた尾崎行雄も渡米している。)
『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』には、川田自身が撮影したものも含め豊富な写真、川田の日記などで渡米公演が生き生きと記録されている。
非常に貴重な、見応えのある一冊である。
以降、当時の新聞記事を当書で補足しつつまとめていく。
【ハワイでの歓迎】
パンアメリカンのプロペラ機で、ウェーキ島を経由、約18時間をかけてホノルルへ到着。
首にたくさんのレイをかけられ、カメラのフラッシュを受け、現地のファンたちの熱烈な歓迎をうけた。
ハワイ公演は、第百大隊(大戦中ヨーロッパで戦った日系アメリカ人部隊)の招聘によるもので、大隊の記念会館を建築するための基金募集が一つの目的だった。
三人は到着するとをのまま、戦死した百大隊の隊員達の墓地へ向かい、黙祷を捧げた。
東京新聞にも、川田らのハワイでの様子が伝えられている。
シビック公会堂での公演は満席で、観衆はひばりの歌に熱狂、川田のギター漫談で爆笑の渦となった。
その後、マウイ島、ハワイ島、カウアイ島と回って各地で公演した。
ラジオは記事内に書かれているKGMBのほか、KHON・KPOAの三局に出演している。
映画「東京キッド」「東京キッド」は川田と美空の渡米決定を機に企画されたもので、帰国後セット撮影したものに現地で撮影した映像を挿入して完成させる計画。ハワイロケでは川田が現場監督を勤めている。6月19日にロケを終え、20日にはホノルルを出発、サンフランシスコに到着している(※)
【参考文献】
『川田晴久と美空ひばりアメリカ公演』橋本治・岡村和恵/中央公論新社/2003
『ひばり&川田inアメリカ1950』日本コロムビア/2013(CD)
東京新聞/東京新聞社
(次回4/7)川田&ひばり、アメリカ本土へ
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