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胡弓かなた
2024年4月28日 00:46
(前回までのあらすじ)1950年、川田やあきれたぼういず達は渡米公演を果たした。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【浅草花月劇場が復活】1946(昭和21)年秋に舞台興行をやめ、洋画専門の映画館「浅草グランド」になっていた浅草花月劇場だが、1951(昭和26)年から再び実演系の劇場に戻り、名前も浅草花月劇場に戻して復活。復活第一回公演が50年大晦日初日「初笑い珍道中」。そして
2024年4月21日 00:04
(前回)のあらすじ川田晴久につづき、坊屋・益田・山茶花のあきれたぼういず一行も1950年6月末から渡米。まずはハワイで大歓迎を受け、アメリカ本土からやってきていた三人組ヴォードヴィリアン「タップナチュアス」とも交流した。【アメリカでテレビ出演】8月14日からはハワイを離れ、アメリカ本土を巡演。移動はやはり車で、ロサンゼルス、カリフォルニアからユタ、オレゴンなど八州ほど廻っている。しかし川
2024年4月14日 00:03
(前回のあらすじ)1950年5月に日本を発ち、アメリカ各地を巡業した川田晴久と美空ひばり。7月に無事帰国し、アメリカ土産の舞台公演やラジオ、映画に登場した。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【あきれたぼういずの渡米】川田の渡米からひと月半後には、あきれたぼういずも渡米することに。メンバーはジャズシンガーの暁テル子に日本舞踊と歌の榎本美佐江、あきれたぼういずの5人で、ハワイの仏教
2024年4月7日 02:07
(前回のあらすじ)1950(昭和21年)5月、川田晴久と美空ひばりの渡米公演が実現。ハワイで熱烈な歓迎を受けた。6月20日にホノルルを発ち、アメリカ本土サンフランシスコに到着した。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【辛いアメリカ巡業】アメリカ本土では、サクラメント、ポートランド、スポークン、シアトル、サンノゼ、ロスアンゼルス、モントレー、サンフランシスコなど、西海岸の都市を廻ってい
2024年3月31日 00:04
(前回のあらすじ)奇跡の再起を果たした川田は、ダイナ・ブラザースを結成、さらに美空ひばりと出会い彼女を売り出す。そして芸名を川田晴久に改めた。有木山太もシベリアから復員してきて舞台に活躍する。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【川田と美空ひばりの渡米】舞台にラジオ、映画出演と忙しく活躍していた川田は、1950年1月、過労で倒れてしまう。復帰したとはいえ、無理はできない身体だ。
2024年3月24日 00:04
(前回までのあらすじ)1946(昭和21)年夏、あきれたぼういずが再結成し活躍していく一方で、川田義雄は脊椎カリエスと腎臓結核に苦しめられ、再起は絶望的とまでいわれていた。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【川田の再起】脊髄カリエスと腎臓結核で苦しんでいた川田だが、その精神力で奇跡的に再起、舞台に復帰することとなった。東京新聞社の記者だった尾崎宏次は、この頃理不尽なレッド・パー
2024年3月17日 00:00
(前回までのあらすじ)1946年6月に再結成したあきれたぼういず。戦前と違い、フリーで活動していく。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【ストリップ流行】1947(昭和22)年。1月5日の演芸欄、新宿の帝都座五階劇場のプログラムに「レビューヴィナスの誕生」とある。大ストリップブームの始まりである。戦時中に締め付けられた反動でタガが外れたかのように、ここから「ハダカ」ブームの時
2024年3月10日 00:02
(前回のあらすじ)1946(昭和21)年6月、坊屋・益田・山茶花が集結してあきれたぼういずを再結成した。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【映画出演】7月16日の東京新聞に、理研映画「お好み演芸会」二巻の広告が出ている。飛行館でのラジオ放送の様子を映像に収めたもので、あきれたぼういずの名前もある。「近日公開」となっており正確な公開日は不明。あきれたぼういずは6月12日に一度ラ
2024年3月3日 00:00
(前回のあらすじ)戦後東京でもいち早く活気を取り戻していた浅草。あきれたぼういずの面々も復帰しつつあった。一方、川田は持病のカリエス再発で療養を余儀なくされた。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【ラジオの人気調査・川田の療養】年が明け、1946(昭和21)年1月。山茶花や坊屋は、舞台だけでなくラジオ放送にも出演している。NHKでは「お好み演芸放送」に対する投書で統計を取り、放
2024年2月25日 00:00
(前回までのあらすじ)太平洋戦争が激化する中、あきれたぼういずやミルク・ブラザースは解散。メンバーはそれぞれ個人で活動していた。岡村龍雄・芝利英は戦死。そして1945年8月15日、終戦を迎える。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!▶︎今回は1945(昭和20)年8月15日の終戦以後、年内の活動について。【戦後を生き抜くための娯楽を】戦時中も、終戦後も、演芸娯楽が大衆を励まし慰め
2024年2月18日 00:00
(前回までのあらすじ)北海道に帰った益田、そして東京大空襲後の焼け野原で芸人を続けていた川田や坊屋。8月15日、戦争が終わった。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!芝利英は1942(昭和17)年11月の応召後、嵐第二一三部隊・歩兵第109連隊通信隊に配属され、中国戦線へ赴いている。「あきれたぼういず活動記」戦後篇に入る前に、今回は戦地での彼の様子について、断片的ではあるがいくつ
2024年2月11日 00:01
(前回までのあらすじ)1943年以降、入院していた川田は復帰し、浅草花月劇場で「川田義雄一座」を旗上げ。益田も「益田喜頓一座(喜劇座)」で奮闘していたがやがて函館に戻り、製材工場長に。坊屋や山茶花もそれぞれに活躍していた。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【前線慰問映画】1944年2月13日の東京新聞に、海軍の慰問映画として「芸能戦線版」を製作中だという記事が出ている。記事によれ
2024年2月4日 00:07
(前回までのあらすじ)1942(昭和17)年に新興演芸部に戻ってきた益田は大阪の劇場を中心に出演していた。翌年に新興快速舞隊(あきれたぼういず)が解散、坊屋や山茶花もそれぞれ個人で活動する道を探すこととなる。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!【益田喜頓、座長から工場長に】色川武大の『あちゃらかぱいッ』は(16)〈グラン・テッカール旗上げ〉でも紹介したが、この時期のあきれたぼういず
2024年1月28日 00:00
(前回のあらすじ)1943(昭和18)年、岡村龍雄は劇団青春座の中心となって活躍する一方、あきれたぼういず改め新興快速舞隊は解散し、ボーイズの時代に終止符が打たれた。※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!▶︎今回からは数回に分けて、終戦までの各メンバーの活動をみていきたい。【川田の退院】1943(昭和18)年7月、無事退院した川田。「それでも七ヶ所も切開手術をしたので、ちょっと僕