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子どもに「いい親だ」と思われたい

 心の底にこのような幼稚な願望をもつ親は、はっきり言って毒親である。親になるべきでないのに親になってしまった人間である。子が親に「愛されたい」という欲求をもつのは自然であるが、親が子に同じ欲求をもつのでは関係が逆転してしまう。そのような親の下に生まれた子に待っている世界は地獄以外の何物でもない。

 例えば、親は、自分が子どものころ、自分の親が仕事ばかりで全然自分にかまってくれなかった。それでずっと寂しかったのを我慢して生きてきた。本当は、同級生の家庭のように、誕生日パーティーとか家族旅行とかをしてみたかった。だから、自分が親になったら、子どもの誕生日にはご馳走を用意して派手にパーティーをしてやろう、夏休みには家族旅行に連れていってやろう、そう思ってその通りにする。

 しかし、当の子ども自身は別にパーティーや旅行を望んでいるわけではない。むしろ派手に祝われるのは居心地が悪いし、旅行に行って友達と遊べる日が減るのも嫌だと思っている。だから、親のしてくれることが嬉しいわけではなく、かえって不快でさえある。そこで、子どもは親が想定しているような反応を見せない。

 親はその反応が気に入らない。だから怒る。
「お前のためを思ってこうしているのに、なんだその態度は!!」
こんな風に怒鳴られると、子どもは逆らえなくなる。というのは、幼い子どもは本来的に、自分自身に関する生殺与奪をすべて親に委ねなければならない存在であるため、その親から「怒り」という名の敵意を理不尽に向けられると、それが死の恐怖に直結してしまうからである。

 その結果、先のように、子どもにとっては不快なことでも、不快だと思うことは許されない。
「わー嬉しい! ありがとうお父さん、お母さん!!」
と言って笑顔を見せなければならない。そうしなければ殺される恐怖があるからである。日常の些細なことでさえこのような振舞いを強いられるのだから、そのストレスは計り知れないものである。

 例えるなら、子どもは目の前の料理に毒が入っているとわかっている。それにもかかわらず、
「わー美味しそう! いただきまーす!!」
と言って笑顔で食べなければならない。毒が効いてきても、「苦しい」と思うことさえ許されない。
「美味しいよ、お父さん、お母さん」
と言って笑顔を絶やしてはならない。さもなくば殺される恐怖がある。幸いにも毒は一度で死ぬような量ではないから、我慢すればやりすごすことはできる。それでも苦しさのあまり、裏で血を吐くこともある。そのときでも
「あんなに良いご飯を食べて、苦しんで血を吐く自分がおかしいんだ。
自分がいけないんだ。自分は悪い子だ。」
と思わされる。

 こういうことが、肉体の面ではなく心理の面で起きている。本当は親に痛めつけられているのに、
「自分は親に愛されている」
と思わなければならないのである。

 そうしたことの積み重ねで、子どもの心は破壊されていく。子どもの人格はズタズタに崩壊していく。毒の苦しみをいくら我慢したところで、ダメージは無くならずに蓄積されていくのだから当たり前である。その破壊者は、他の誰でもないその子の親である。残酷だが、これが毒親育ちの現実である。

 ちなみに、こういう環境で育った子はいじめ被害にも遭いやすいだろう。実際、筆者がそうであった。なぜなら、その子は常に怯えているからその弱さをいじめっ子に見抜かれやすく、また実際に何かをされても反抗する能力がないからである。というより、親がその子の反抗する能力を潰していると言った方が適切かもしれない。いじめっ子の格好の標的になるのも当然であろう。そもそもすでに親からいじめられているのだから。

 このように、毒親は自分の存在価値を「いい親」という役割の中にしか見いだせない。だから、最初に書いたように、子どもに「いい親だ」と思ってもらいたい親は毒親なのである。そのような親は、自分の子どもが自立することを許さない。自分に価値を感じられる唯一の場がなくなることを恐れているからである。だから子どもにしがみつく。子どもにしがみついて、子どもに毒を流し続けなければならない。そして、それをしながら子どもに愛を求める。この矛盾した実現不可能な要求に曝露され続けた子どもがまともになれるはずがない。

 発達障害の遺伝性ということが言われる。しかし、考えてみれば、親自身がまともに成熟できていないのに、その親が自分の子どもをまともに成長させることなどできるはずがないのである。子どもにとって、親との関係がすべての対人関係の基礎になる。その土台となるべき親子関係がそもそも異常であるのに、その異常な関係を正常だと思わなければならないのだから、子どもが生きづらくなるのは当然である。

 ところで、「親殺し」の事件が実際に起きている。
「親にそんなことをするなんてありえない・・・」
まともに育ててもらえた人ならこう思うだろう。人によっては、事の異常性のあまり、子どもを非難せずにはいられないかもしれない。
「これまで育ててくれたのになんてことを・・・」
「こいつは重い罰を科されても文句は言えない」

 しかし、殺された親がここで書いたような毒親であった場合には、その親を「殺してやりたい」と思った子どもの方がかえって正常なのである。誰が見てもわかるような虐待関係が毒親のすべてではない。むしろ、自分の毒性をうまく隠している毒親ほど質が悪いと言ってよい。

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