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音楽と政治ーー人々に生き方の指針を与える物語としての文化(「音楽に政治を持ち込むな」を再考する)

本論稿は、大学生である私が学士論文として執筆したものの第4章にあたる。本論は、私の個人的な政治と音楽に関する興味に端を発している。「音楽に政治を持ち込むな」という言葉が発されることがあるらしい。どこの誰が発しているものなのか、正直わからない。しかし、TwitterのTL上においては論争になっていたと記憶する。そのような言葉が仮に発されていなくても、そのように思っているどこかの誰かがいるのだろうと、想像されているように思われる。私はこの「音楽に政治を持ち込むな」という言葉、そのような言葉を発する仮想敵を想像してしまう人々が存在し、論争となっているこの状況に対し、そのような状況が当たり前ではなく、そうではない状況もあり得たことを示したい。第1章においては政治とフォークソングという音楽の強い結びつきについて示した。第2章においては、その結びつきが崩れていくような状況を吉田拓郎、井上陽水、松任谷(荒井)由美に関する資料を引き、どのようなものであったのか、確認した。第3章においては、最初に「政治と結びつきをもつ若者文化である対抗文化が、脱政治化され、爛熟した消費社会と結びついていった」という語り口を紹介し、その語り口に沿うものとして松任谷(荒井)由美のリスナーの実践について確認し、消費を絡めて若者に新たな生き方が生まれていることを記述する。第4章においては、第1章から第3章までを踏まえて、第3章で紹介したユーミンとユーミンの音楽を参考にして生きる若者の実践と、第1章で紹介したフォークゲリラにまつわる若者の実践をある意味において同じものとして捉えられないかといいう試みを行う。またフォークゲリラ的な実践と、ユーミンリスナーの実践を「反現実」、「理想」、「虚構」という観点から考え直す。どうかお付き合い願いたい。

第4章 対抗文化は消滅したのか、文化から政治性は失われたのか

第1節 問題提起――これまでの議論を捉え直せるのではないか

ここまで、第1章では、若者と音楽と政治が結びつく状況、対抗文化としてのフォークゲリラについて描き出し、第2章では若者に支持されたフォークソングである私生活フォーク、またユーミンに代表されるニューミュージックを取り上げ、それが商業主義に迎合し、政治との距離をとっていったことを確認した。そして第3章では、ユーミンのリスナーが「消費による自己表現」という新しい若者のあり方を獲得しており、ユーミンとユーミンの楽曲がそのテキストブックのようなものになっていたことを明らかにした。これまでの本論文での流れは、第3章の冒頭で示した上野、小森、成田の語り口とほぼ対応するような流れとなっている。体制に対抗し、フォークゲリラのような政治性を持つムーブメントを巻き起こしていたフォークソングという文化が、私生活フォークのように個人的な世界に自閉し、政治から距離を置くようになり、「脱政治化」する。そしてニューミュージックの時代になると、商業化され、「対抗文化、文化までもが消費財化する」、「消費社会の爛熟と結びつく」というような事態、音楽という文化が消費社会に回収されてしまうという事態が起きていた。この語り口において、若者は政治的にシラケていて、まるで政治からの逃避をし、消費に耽溺する存在のように描かれる。確かにこれまで描き出したものは、フォークソングとフォークソングの流れを汲むようなニューミュージックという音楽が政治性を失い、曲やアルバムが商業主義に迎合する、そしてリスナーに欲望させ、消費を促進するという過程であり、若者のあり方は60年代末のあり方と比較すれば、怠惰なものとして目に映るだろう。
しかし、本当にそのような捉え方しかできないのであろうか。社会学者の小熊は連合赤軍と連合赤軍についてフェミニストの視点から捉えたウーマンリブ活動家田中美津に関しての議論を踏まえて「田中の連合赤軍解釈は、高度経済成長によって開花しつつあった大衆消費社会の肯定につながっていった。すなわち、革命もファシズムも、新左翼も第日本帝国も、『大義によって〈私〉を殺す』という禁欲主義では共通だという連合赤軍解釈の行き着く先は、ある意味で明らかだった。すなわち『公』の『大義』や社会運動などよりも、『私』の欲望が優先されるべきだ、という論理が出現していったのである」(小熊,2009:767)と若者が学生運動など政治活動に取り組むあり方から、消費に走ったことについて分析する。ユーミンファンの実践もこのように60年代末からの移行期に生まれた、私の欲望を優先してもよい生き方の延長線上として一つ捉えることができるのではないだろうか。ユーミンファンのあり方、特に「自分らしさ」=「個性」を追い求め「自己の価値観」を体現するよう、「消費による自己表現」をも試みるあり方は、それまでの時代ではあり得なかったような新しい若者のあり方として、ある種、魅力的でもあるようなあり方として描くことができるだろう。ここでは消費をすることが自らの欲望を優先できる魅力的なあり方の一つであったことを描いた。ユーミンリスナーの実践をある種の政治性を持つものとして捉えられないだろうか。また、むしろフォークゲリラの若者の実践を捉え直すことはできないだろうか。両者がある特定の意味において同じようなものとして捉えられるとすれば、「若者が政治から離れ、怠惰に、消費に耽溺している」「対抗文化が脱政治化した」という語り口を相対化しうるのではないだろうか。その試みを始める。

第2節 反現実 理想、夢、虚構


ここからは、フォークゲリラのあり方とユーミンリスナーのあり方がある意味で同じようなものとして捉えられないか検討する。まず両者を検討し直すにあたり、社会学者である見田宗介の論考「現代日本の感覚の変容――夢の時代と虚構の時代」(1995)から、戦後日本人の心性を表すような3つの反現実による時代区分についてまとめる。見田は1945年から1960年までを「理想の時代」、1960年から1970年代前半を「夢の時代」1970年代中葉から1990年までを「虚構の時代」と分類した。この3つの理想、夢、虚構はいずれも、現実という言葉の反対語であり、反現実を表す言葉である。それぞれの時代で、日本人がそれぞれの反現実を生きようとしていたと見田は言う。
第一の「理想の時代」において、日本を支配していた理想は「アメリカン・デモクラシーの理想と、ソビエト・コミュニズムの理想」であった。両者は理想を現実のものとすることを試みるもので「保守的な」現実主義者と対峙し「進歩派」とされた。そして現実には二つの側面、つまり「現実によってわれわれが制約され、決定されている側面と、現実をわれわれの手で決定し、形成してゆく側面」があるとする。この時代において、「進歩派」の理想主義者は現実の二つの側面の後者の側面を見ており、それぞれの進歩史観のもと、理想を現実化しうるものとして疑いを持っていなかった。しかしながら日米安保条約の継続に対しての闘争の結果、現実主義勢力に敗北し、理想の時代が終わったとする。
第二の「夢の時代」において、青年たちが求めていたものは「理想の時代」におけるアメリカン・デモクラシーの理想や、ソビエト・コミュニズムの理想ではなく、「むしろこれらの政治的理想に向かう運動や、これに対立した「現実」主義者の経済的な理想の現実が生み出してしまう、新しい形の抑圧や非条理からの解放というべきものだった」と見田は指摘する。学生運動を担うような学生が攻撃の標的としたのは、「戦後民主主義」、「スターリニズム」、「旧左翼」、「近代合理主義」、「管理システム」などの「理想の時代」のさまざまな「理想」に対する反乱であった。そして政治的な闘争、ヒッピー・ムーブメントやフラワー・チルドレンのような試行に内には「新しい時代のかたちや生のかたちがここから開かれて来るはずだという、熱い夢たちが沸騰していた」とする。
第三の「虚構の時代」については、見田は文学、映像作品、家族のあり方、ディズニーランドなどの分析を通して、人々が虚構を生きていることを指摘する。この虚構の時代に関して、見田の言葉では虚構を生きることがいかなることであるのか十分には掴みかねるところがある。そこで以下見田の反現実に関する論考を踏まえ、理想と虚構について議論した社会学者である大澤真幸の「虚構の時代の果て」(1996)と「不可能性の時代」(2008)を参考し、反現実についてまとめる。
大澤は見田の議論を受けて以下のように展開する。大澤によれば、理想について「未来において現実へと着床することが予期されている反現実」、虚構について「それがやがて現実化するかどうかに不関与な反現実」とし、「『理想→(夢)→虚構』と順に、反現実の度合いを高めてきた」という。(大澤,2008:3)また大澤は上記の三つの時代区分を「理想の時代」と「虚構の時代」の二つに圧縮する。夢の時代について、「『理想』と『虚構』に引き裂かれるような両義性を持っている」と指摘し、「『夢の時代』は両側の理想の時代と虚構の時代に解消することができ、大きくは、理想の時代から虚構の時代への転換があった」とする(大澤,2008:2-3)しかしここで解消される夢の時代こそが、フォークゲリラが属した時代である。よって夢の時代に当たる時期を大澤がいかに分析していたか確認する。
大澤は1960年台末を「理想の時代」の末期として位置付け、その時期について以下のような分析を加えている。「六〇年代末期の学生運動が掲げた理想は、六〇年安保の運動を導いたような戦後的な理想――戦後民主主義(アメリカ)やスターリニズム(ソ連)――を否定することのみをその実質的な内容としていた。理想の否定を理想とすることによって、運動は、政治的な具体性を欠落させ美学的な装いを帯びることとなる」(大澤真幸,1996:53)学生運動、特に全共闘運動についても以下のように大澤は語る。「全共闘運動は、社会の革命、改革を求める運動であった以上は、理想の時代に属する出来事であった」とした上で、「全共闘運動に参加した若者たちが目指した理想は、しかし、具体的・実質的内容をほとんど持っていなかった。それは、ただ、従来の権威、従来の理想を否定するということ以外の内容をもってはいない。理想の否定だけが理想であるとするならば、この運動は、理想の時代の末期的な症状であると見なさざるを得ない」(大澤,2008:74-75)この時代は理想の時代に内包することが困難であるような「理想の時代の末期」とされる。
またこの1970年前後、特に連合赤軍のメンバーと同年代に当たる団塊の世代における、この時期の人々の理想の抱かれ方について、村上春樹や井上陽水ついての批評家の分析を通じて、以下のように大澤はまとめる。この時期の理想の抱かれ方は「直接的な実現を迫るものとしての理想の現実性を放棄しつつ、理想〔を所有すること〕の可能性だけは、つまり理想が占拠するための場所だけは確保」また「理想の内容的な具体性を拒否しつつ、理想への志向だけを確保しようとした」ものである。「一方では、その現実性が否定されながら、他方では、それを憧憬する志向のみが保持されているような対象とは、もはやほとんど虚構ほかなるまい」(大澤,2008:59-60)このような理想の抱かれ方に関して、「理想の時代」から「虚構の時代」への移行状態を表すようなものと評価されているように思われる。
では大澤は、ユーミンリスナーが属するような「虚構の時代」をどのように分析するのだろうか。大澤は虚構の時代を「情報化され、記号化された疑似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊穣化し、さらに維持することへと人々の行為が方向づけられているような段階」とし、「虚構の時代の若者風俗の上での対応物が、まずは『新人類』(八〇年代前半)」つまりは「特定の理念や思想にとらわれることなく、ファッションや趣味などの消費の水準における『記号的な戯れ』によって自己を提示する若者」であるとしている。そして彼らの態度を「『理想』の時代を支配していた思い『理想』からの解放を前提にした態度」と評価する。(大澤,1996:44-47)ユーミンリスナーに通ずるものがここからは感じられる。またユーミンリスナーに関して特徴的だった、「消費」の虚構の時代における位置付けについて次のように記述する。「虚構の時代として特徴づけられた現代社会を、別の用語で言い換えれば、『消費社会』ということになるだろう。消費社会では、商品は、ときに有用性からはまったく独立した、情報的差異を通じて消費される。商品は、使用価値(現実)ではなく、一種の情報的な差異(虚構)の領域に定位されるのだ」(大澤,2008:79)ここまで見田と大澤の議論を追ってきた。ではこのような議論を踏まえて、どのようにフォークゲリラやユーミンリスナーの実践について捉え直すことができるだろうか。

第3節 フォークゲリラ再考


フォークゲリラは反現実との関わり合いにおいて、どのように捉え直すことができるだろうか。まず、フォークゲリラ運動は理想の時代の末期に属する出来事であるが、そのフォークゲリラ運動において掲げられた政治性はどのように考えられるだろうか。フォークゲリラ運動は「反体制」運動であり、反戦を掲げ社会のあり方について討論する場の形成を目指すものとして生まれており、体制に抵抗できる勢力の拡大、政治運動を起こすことを期待して行われていた運動である。彼らは「現在の体制ではないこと」あるいは「体制に抵抗し、変革すること」を目指すだけで、実現させたい内実のある理想(例えば、戦後民主主義やスターニリズム)のようなものは持ち合わせていなかったように思われる。これは大澤の指摘通り、「ただ、従来の権威、従来の理想を否定するということ以外の内容をもってはいない。理想の否定だけが理想」である運動として考えることができるのではないだろうか。
フォークゲリラにおける音楽つまりフォークソングは、反現実の議論を踏まえて、いかなるものとして捉えることができるだろうか。彼らにとってのフォークソングとは、反戦、反体制を表明する非暴力的な武器であるとともに、民衆を「啓蒙」し、自らの不満を表明するものへ変質させ、さらには「群衆」を「集団にする」つまりは抵抗勢力を形成、拡大し、社会変革につなげるものとして認識されていた。そしてこの「民衆が変質し、抵抗勢力を形成、拡大し、社会変革をする」とは彼らにとっての理想である「体制、権威の否定をする」という内実のない理想の一部分として捉えられ、一つの理想として考えることができるのではないだろうか。この「民衆が変質し、抵抗勢力を形成、拡大し、社会変革をする」という理想は、理想であるがゆえに反現実である。フォークゲリラの若者にとってフォークソングという音楽はこのような、いま現実に存在しない反現実を実現するような力として認識されていたと捉えられる。
さらに、民衆を変質できるという期待からはフォークソングという音楽により、人が彼らにとっての「理想」である「社会変革」を目指すようになる、つまり「社会変革」という「反現実」の実現を求める人に変わりうるという認識が垣間見えている。この認識からはフォークソングが、人を「社会変革」という「反現実」に向けて誘導し、方向づけるような力をもっているものとして捉えられていたと考えられるのではないだろうか。いわばフォークソングは、反現実に至ろうとするあり方、あるいはフォークソングそのものがプロテストにより逆説的に「今とは違うあり方の社会」=「理想」=「反現実」を示すものだと考えられる

第4節 ユーミンとユーミンリスナーの実践の捉え直し


反現実との関わり合いにおいて、ユーミン、ユーミンの楽曲を参考に消費に耽溺するような若者の実践はどのように捉え直せるだろうか。まずその実践は「虚構の時代」に属するものであった。ユーミンの実践は「これまでの既存の価値観に惑わされず、自分自身の感性で詞や曲を作り、着るものを選び、聴く音楽や読む本を決めている」ことで、「自分の価値を体現する」をしているのであった。そしてユーミンリスナーはユーミンの楽曲、あるいはユーミンのあり方をお手本として「自分らしさ」=「個性」を探し、「消費により個性が表現できるという期待を持ち消費活動を行う」存在であった。それに伴い、いわばユーミンナイズドされた「ユーミンのお得意様」と表現される典型的なユーミンフォローワー像すら記述することすら可能になっていた。虚構との関係をどのように指摘できるだろうか。
ユーミン、ユーミンの楽曲がいかなるものであるのか検討していく。まずユーミンリスナーの姿は、虚構の時代における「新人類」のものと重なる。「特定の理念や思想にとらわれることなく、ファッションや趣味などの消費の水準における『記号的な戯れ』によって自己を提示する若者」なのではないだろうか。ユーミンリスナーがユーミンの楽曲を聴き、例えば「SURF &SNOW」のアルバムを聴き、そのシチュエーションに憧れるつまり、「SURF &SNOW的な私」になるべく、被服を「陸サーファー」的なものにしたい、「苗場でスキー」を、「逗子でサーフィン」をしたいと欲望するときの「SURF &SNOW的な私」として自己は提示され、このとき消費されるレジャーや被服は情報的な差異(虚構)になっている。これはどういうことなのだろうか。ユーミンの楽曲を通じてリスナーは、今「現実」にない「反現実」な私、つまり「SURF &SNOW的な私」、「中央フリーウェイ的な私」などユーミンの楽曲のシチュエーションにある私つまりは「(ユーミンの楽曲)的な私」になることを欲望させられていたと考えられる。楽曲以外の影響、ユーミンのあり方も含めて「(ユーミンの世界観)的な私」と表現しても良いかもしれない。「(ユーミンの世界観)的な私」は「反現実」であり、それは虚構であろう。ユーミンの楽曲は現実を意味づけし、虚構に仕立てていたようであるからだ。ただの「スキー」「サーフィン」「中央自動車道でのドライブ」を「サーフ天国、スキー天国」や「中央フリーウェイ」のような曲は「ユーミン的シチュエーション」として美的演出、意味付けをしている。そうした楽曲は、若者に「消費をすることでその虚構に没入すること」を可能にし、美的な演出で没入を促すものだろう。「(ユーミンの世界観)的な私」というのはそのような虚構に没入している私であり、それゆえ虚構の私である。消費によって楽曲のシチュエーションのような「(ユーミンの世界観)的な私」が現実のものとなったと考えるかもしれないが、実際にはそれはただ「スキー」「サーフィン」「ドライブ」をしているだけである。もっと言えば「雪の上を板で滑る」、「板に乗り波に身を任せる」「車で移動する」ことであるかもしれない。これらを踏まえれば「虚構」=「反現実」を美的に演出し、消費によりその虚構への没入を若者にそそのかすもの、そして虚構への没入の仕方の参考書としてユーミン、ユーミンの楽曲を考えることができるだろう。リスナーはユーミンによりつど発表される参考書をもとに、虚構へとそそのかされ、没入し続けたと考えられる。
ではユーミンリスナーが実践を試みた「自分らしさ」=「個性」を消費により表現する、あるいは「自分の価値観を体現する」ことは反現実からいかに捉えることができるだろうか。ユーミンのリスナーによれば「自分の価値観を体現する」ことには、既存の価値観に惑わされずという要素が入り込んでいた。既存の価値観とは、いわば現実に即すような価値観であり、いまかたちづくられている現実を構成する要素として捉えられるのではないだろうか。これを踏まえれば既存の価値観に惑わされないことは、いまある現実に即した価値観を疑い、それに基づく「現実」のあり方から距離をとることではないだろうか。ゆえに「自分らしさ」を探し、自分の価値観の体現を目指すというあり方は「現実」から距離をとるあり方である。「自分の価値観」が消費によって体現される、「自分らしさ」「個性」を消費により表現するというのがリスナーの感覚だが、そのような設定の世界観は虚構ではないだろうか。「着るもの」「聴く音楽」「読む本」を自分の価値に基づいて消費することにより「自分らしさ」、「個性」が現れるというのは服、CD、レコード、本などの商品を「情報的な差異(虚構)の領域」と捉えている証であろう。また消費で「自分の価値観が体現できる」「個性」が表現できるという設定の世界観は虚構なのではないだろうか。それら消費される商品は、自分以外にも消費されるものでありうる。その他大勢も同じ商品を消費している、つまり「没個性」なのではないだろうか。(世界に一つしかない服や本や音楽が商品として世界に一点しか存在しないことがあるだろうか。特に音楽、本は想像がしづらい。あったとしてそれは商品なのだろうか。あまりにも稀有なケースであるし、それはむしろ他の誰も情報、消費されるものとして、そのものを考えられないのではないだろうか)特にユーミンや、ユーミンの楽曲をお手本にし、消費により「自分の価値観を体現する」ことは、自らをユーミンナイズドし、「絵にかいたユーミンのお得意様」にすることだろう。これは自分らしさというよりユーミンの世界観らしさを体現することで「没個性」的だろう。ユーミンを手本として「自分らしさ」=「個性」を消費により表現する、あるいは「自分の価値観を体現」しようとするユーミンリスナーの実践は「自分らしい自分」ではなく、これもまた「(ユーミンの世界観)的な私」を求める運動として回収されていただろう。ユーミンリスナーは「自分らしさ」「自分の価値観の体現」という虚構を追い続け、常にそれに到達できず、場合によっては「(ユーミンの世界観)的な私」となっていただろう。
ここまでユーミンリスナーの実践を虚構に没入するもの、虚構を追い続けるものとして描いてきた。以下にその傍証となるような文章を引用したい。

「日本経済が成長し、ライフスタイルが欧米化するとともに女性達が生き方を変えていく、その伴奏曲となったのがユーミンの歌だったのです。女が内包するドロドロしたものを全て肯定し、ドロドロをキラキラに変換してくれた、ユーミン。私達は、そんな風に甘やかしてくれるユーミンが大好きでした。ユーミンが描くキラキラと輝く世界は、鼻先につるされた人参のようだったのであり。その人参を食べたいがために、私たちは前へ前へと進んだのです。鼻先の人参を、食べることができたかのかどうか。それは今もって判然としないところなのですが、人参を追っている間中、『ずっとこのまま、走り続けていられるに違いない』と私達に思わせたことが、ユーミンの犯した最も大きな罪なのではないかと、私は思っています(中略)何歳になっても格好いいユーミンという女性が実在するということは、もしかすると自分もそうなることができるかも、という可能性を、ユーミンは示してしまったのです」(酒井,2013:274)

酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社

これまでの資料と重ねて読めば、「キラキラと輝く世界」=「鼻先に吊るされた人参」は、ユーミンが描く虚構、それゆえ到達不可能な世界あるいは、「自分らしさ」というたどり着き得ない虚構としても読めるのではないだろうか。また「自分らしさ」に限らず、ユーミンが描く世界というものは全て虚構であり、そうした世界に辿り着けなかったのではないだろうか。ユーミンの世界観に憧れて生きることはまさに虚構の中を生きることである。そして「人参を追っている間中、『ずっとこのまま、走り続けていられるに違いない』と私達に思わせたことが、ユーミンの犯した最も大きな罪」という表現からは彼女たちが虚構を追い続け、後年その虚構性に気づき、そのあり方の是非を内省した結果生まれた表現にも思われる。ユーミンとユーミンの楽曲は、虚構であり、虚構に没入させ「自分らしさ」とその体現という虚構を追わせるものでもあり、そうした自分らしさを消費で体現しようと試みる際の、参考書だったのかもしれない。

第5節 結論

ここまでの議論を踏まえて、フォークゲリラとユーミンリスナーの実践をある意味において同様のものとして捉えられるのではないだろうか。前者は政治的で、後者は政治から分離したものとして語られることがステレオタイプのものである。しかしユーミンリスナーの実践の政治性についても、語ることができるのではないだろうか。両者は音楽という「反現実」のあり方が示される参考書により、いまある「現実」から距離を取るように方向付けられた若者の実践であり、その実践は当たり前とされている「現実」を一つのあり方でしかないものとして演出する政治性を持ったのではないだろうか。両者がそのようなものであることを確認する。
フォークゲリラにとって、フォークソングとはプロテストを行い「こうでないあり方で社会があったら嬉しいな」を表明するものであり、「今とは違うあり方の社会」=「理想」=「反現実」を若者に示し、聴いたものが「理想」=「反現実」を目指すように変質させるようなものとして捉えられるのであった。これはフォークソングという音楽が「反現実」のあり方を示す、参考書となっており、「体制」といういまある「現実」から距離を取らせ、「理想」=「反現実」の実現へ方向づけている。さらにフォークゲリラという実践は「体制」=「現実」を討論により、周囲に当たり前を再考させ、抵抗勢力の形成し、歌うことで暴力と投票以外のやり方で社会を変えようとするようなものだった。そしてそこでシングアウトされる歌はプロテストソングであり、「体制」=「現実」に他のあり方があるのではないかと聴くものに提示し、それが絶対的ではないことを運動の中で描き出すという政治性がある。
ユーミンリスナーにとって、ユーミンの音楽は「ユーミンの世界観」「個人の価値観が体現されうる世界」という「虚構」=「反現実」について示すようなものである。そしてユーミンリスナーはそれを参考にし、消費で「(ユーミンの世界観)的な私」に憧れ「虚構」に没入する、「消費による自己表現」という設定の世界観=「虚構」に生きるのであった。それらの実践は、前者であれば「現実」の私から脱却しようとするものであり、後者であれば「既存の価値観」=「現実」に即した価値観に惑わされないことを意味し、「現実」から距離を取り「虚構」=「反現実」へと方向付けられている。そしてそうした「虚構」を追い回して生きるような実践は「理想」の重荷に苦しむような若者のあり方を絶対的なものではないと描きだすようなものだったのではないだろうか。井上陽水など夢の時代のあり方も、理想からは抜け出せないものであったのだ。理想を志向するようなあり方、それがただ一つのあり方でないことを描き出している。ユーミンとリスナーの実践は周囲の当たり前、「現実」を意図せず、黙説法的に崩そうとする政治性を持つ。ここには投票と暴力以外で世界を変えるという政治性が内包されている。ユーミンの世界観に憧れ、ユーミンの描く消費が伴うような恋愛、そして結婚を志向し、親からの縁談を拒む。そうした場面には、他者の「現実」の当たり前を崩そうとする政治性が立ち現れているのではないだろうか。音楽は、「反現実」のあり方を示し、方向づけるようなテキストブック、参考書のようなものになりうる。そのような音楽と若者が結びつくとき、他者の「現実」のあり方とぶつかりそれを変えようとする政治性を孕んだ実践が生まれる。

参考文献など

・大澤真幸 1996 『虚構の時代の果て――オウムと世界最終戦争』 筑摩書房
・大澤真幸 2008 『不可能性の時代』 筑摩書房
・小熊英二 2009 『1968〈下〉若者たちの叛乱とその背景』 新曜社
・酒井順子 2013 『ユーミンの罪』 講談社
・見田宗介 1995「現代日本の感覚変容――夢の時代と虚構の時代」『現代日本の感覚と思想』p 12-36 講談社


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