私にとっての「普通」はあなたにとっての「なに」?
どこの誰かも分からないような「私」という、いわゆる平凡な分類の人間が、「普通」についてもの申したとき、この声は誰に届くのでしょうか。
気が付けば、見たこともない、出会ったこともない人からの言葉で人を簡単に殺せる時代になりました。
いつの間にか、こんなにネットに操られて生きる私たちになっていました。
自分が生きることに必死になっている間に、世界も必死に便利を追求してきたようです。
それは幸福も不幸も私たちに享受してくれたと思います。
私が小学生の時に大人気だった“シール交換”をしている小学生は今探してもほとんど見当たらなくなりました。
代わりにTikTokのダンスを覚えるようになりました。
時代の変化があまりにも早くて、21歳ながらにジェネレーションギャップを感じます。
今小学生のあなたの「普通」の物差しは、私の視界から見える「普通」とかけ離れているのでしょうね。
あなたにとっての普通は私にとっての驚愕。
あなたにとっての普通は私にとっての幸せ。
どうあがいても同じにはなれない人間だから、普通が歪んでいる世界は当たり前ですね。
違うことこそが普通なはずなのに、違うことが凶器になる世の中で、
私は、自分が見たものを自分の感情で綺麗と言いたいのです。
”100万人が綺麗と言った街より
1人が綺麗と言った田んぼを
あなたは好むかもしれない。”
その時あなたは「自分は普通じゃない」と言いますか?
それとも「多くの人が気づけなかった美しさを知れた」と自分の感性を大切にしますか?
私は後者になって、
大多数が当てはまるその条件が、あたかも正しいかのような世界の中で
ちっぽけな一人の人間として自分を貫いて生きていたいのです。
自分に素直に生きることは怖いことなのでしょうか。
逃避するために、大勢の母集団に引っ張られて、その時に応じて意見を変えますか。
大勢からバッシングを受けたときは、あいつは最低。
いいニュースが舞い込んだときは、やっぱりあいつは最高。
それでいいですか。
そのどうしようもない、あまりにももろい軸が集まることで、集合体があたかも頑丈に見せかけた柱に代わり、一人のターゲットを殺すことができます。
それでもあなたは、
見た目が巨大で、中身は腐っている柱の一部にしがみつきますか。
脆そうなのに折れない、1本の細い棒になるのは孤独ですか。
孤独です。孤独だけれどそれが私の理想です。
いったどうすればいいのですか。
一般的に「普通」と呼ばれない、少数派の何者かを
「認めよう」とするのですか。
「認める」「認めてあげよう」
いつから、少数派は多数派の家来なのですか。
この世界は「多い」ほど権力が高くなる仕組みが知らぬ間に練り込まれているようです。
認められることを求めてない人がいると思います。
私のコンプレックスは、私の最大の特徴は、誰かに認めてもらわないといけないのですか。
「認められる」ことを望んでいない。
「知る」 でいいのではないかと思うのです。
「知る」ことは、相手との関わり方を導き出します。
相手にとって、他者が入ることを許可しない領域が可視化します。
相手にとって、心地よい話し方を研究できます。
知ろうとしていたら、そしたら人に優しい自分になれた。
その循環で十分ではないかと思います。
私にとっての「普通」はあなたにとっての贅沢かもしれない。
私にとっての「普通」はあなたにとっての憤りかもしれない。
私にとっての「普通」があなたにとっての「普通」でなかったとき、私を攻撃しないでください。
誰かにとっての「普通」があなたにとっての「普通」でなかったとき、誰かを攻撃しないでください。
私の、誰かの「普通」を無理に理解しようとしないでください。
私の、誰かの、一人の生き方がある事だけを知ろうとしてください。
自分の感情を言語化できるnoteという繋がりの中で、小さな抵抗の声をあげることができました。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
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