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匿名じゃないと裸になれない

「自分を晒け出さないと、面白いものは作れない」
この言葉が社会人1年目のわたしを呪縛した。

最近、職場で言われた言葉を引用してばかりだ。
そんなに、覚えているような言葉を人に言われていたのかというのも驚きだし、自分の認識以上に人の言葉に囚われてるのかもなあという気持ちと、否応なしに考え続けてしまうような発言と出会えたのは喜ばしいなあという気持ちがないまぜになる。

きのうの夜、初めてnoteに書いた文章をinstagramのストーリーに全文あげた。ここに垂れ流している文章は、SNSと紐づけることをしてこなかったので、別に誰も気にも止めんよと思いながらも結構緊張した。

いつからか、自分の考えていることが人に晒されるのが何よりも怖くなった。なんでだろう。大事なものは、自分と、ひとりの好きな人と大事にできたらそれでいいと思う。知られる先を広げることは、大切で脆いなにかを土足で踏み荒らされるチャンスを自ら増やしにいくことだから。自分には妙に発達障害っぽいところが局所的に存在するけれど、そのひとつが「考えていることが相手にミリ単位で正確に伝わらないのなら、何を知ってもらう必要もあると思えない」ところだ。

「ああ、そのタイプね」
相手の頭の中で、既に知っている誰かの言説やどこかで読んだことのある大きなサンプルの枠に私なりの必死の言葉は解像度をガクンと下げられて、収容される。乱雑な収納と同時に、彼(女)の思考は止まる。あるいは、止まったうえで、誰かの言葉で筋違いにわたしを刺すことを目指す。手応えのある何かにぶつけて返答を期待していたわたしは、その度に馬鹿みたいに落ち込む。直線上にいたはずの人が、不意によける。言葉を尽くして死に物狂いで投げた球は、闇に吸い込まれていく。

認めたくないけど、クソ真面目で期待しいで、傷つきやすい。

別に、知ってもらうために感じるわけでも、うんうん考えるわけでもない。なにより、わたしには奇跡的に、分かろうとすることに努力してくれる大事な人がひとりいるので、この場所はあくまで自分の思うことを自分のためにログ的に残していければよかった。日々自分の何かが晒されているような現代の生活の中で、唯一匿名で素っ裸でいていい場所として設定した。

本当は、匿名じゃなくてもそれが言える人になりたかったと思う。
実名と、ここで書いていることが接続していたら、息がしやすくなるかなと思った。自分にもその願望があって、怖くてそれができないことがコンプレックスだったから、冒頭の言葉があんなに頭にこびりついて離れなかったんだと思う。

そこまで極論じゃなくとも、インタビューの基本で「被取材者は、取材者の鏡」という考え方がある。落ち着いて質問したら、相手も考え考え訥々と話してくれるし、焦って質問したら相手も焦って答えが浮かび辛くなる。それと同じで、取材者も自分を開示しなければ、当然相手も自分の奥深くのことは話してはくれない。

何が直接要因か分からないけれど、昨日の夜は、少しずつ開示してみようと思えた。それは未だに、自分の考えることに知ってもらう価値があると思うようになったわけでもなければ、細かいところは伝わらなくてもいいやと思うようになったわけではない。そこまでの使命感はないし、使命感なんてものは理想としては限りなく自分から排除していたい。自分を伝えることを諦めたわけでもない。

でも、私と知り合って友だちでいるということは、私の思考と付き合うことなんだよなと思う。どこまでも裸でいないといけないなんてことはないし、その采配の主導権はいつまでも私にある。イエスでもノーでも、ハテナでも、何を思ってくれてももちろんいいし、そのどれだとしても誠実なリアクションをくれる人にはありがとうと思う。周りの人には、私の思考と友だちになるか決めてもらうしかない。程度の違いさえあれど、どこまでいってもそうあるしかないんだからと思ったら、なんだか気が楽になった。


過去に、何人かの人は無理矢理にでもここを探し出して、無防備になった心や頭に、入ってこようとした。リアクションを押さないだけで、定期的に見ようと思ってる人がいるかもしれない。リンクは貼らなかったけど、文章の一部をコピーして検索したら、もう簡単にnoteは見つかる。
読んでくれと頼んだこともないのに、ふとした時に「ありがたい」感想を投げつけられる度に、懲りずに落ち込んで、心臓がバクバクした。アカウントを消そうかと数日真剣に考えるくらい嫌だった。

でも、最近分かり始めた。その類の人間が開示していることなんてほとんどない。そういう人から来るものは、先日放送したわたしの企画についての感想も、やっぱり同じようなものだった。露わになった人の大事なものをひょいっと摘み上げて、卑しく品評する君は一体なにを懸けているんだい。


自分さえ分かっていればいいよと、どんなジャッジにも偽りなく裸のまんま笑い返せるようになったらつよいなと思う。鈍くなることで逃げるんじゃなくて、ちゃんと傷つきながらちゃんと友だちを見極めながら、正直でい続けるタフさに近づいていきたいな。




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