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2014年の作文

8月6日

◇ドームのボーイ  

 ぼくは生まれている

爆弾は落ちている

母は産んでいる

爆弾を落としている

慈愛に満ちている

悲惨が広がっている

ドームを造っている

聖堂の天井に

ドームが壊れている

骨組みを残して

少年は食べている

冷たくて甘いかき氷

少年は泣いている

暑い夏である


8月23日

◇『漱石の実験』を読んで                             

 読書感想文を書きます。松元寛『漱石の実験』朝文社、という本を品川区にはなかったので目黒区の図書館から借りて読みました。なぜこの本を借りたかと云うと、高橋源一郎さんの小説『日本文学盛衰史』のなかで、驚くべき本として紹介されていたからです。

 夏目漱石は日本を代表する小説家であり、誰でも一度はその作品に触れている。おまけに野口英世がプリントされている現在の千円札のひとつ前の紙幣でもあった。ぼくは、千円札は夏目漱石のままがよかったと個人的には思っている。

高校2年の時、国語の教科書に漱石の作品『こころ』が掲載されていて、ぼくは初めて漱石に触れ、その後大学生になってから『こころ』を読み直して、えらく感動した。そして社会人になってもう一度読んで、微妙に揺れ動く人間心理をこうも見事に描ける作家、夏目漱石とは何者か、という興味が自然とわいてきた。

世の中には、漱石文学を紹介する本が無数にあって、漱石への入り口はたくさん用意されている。しかし、『漱石の実験』ほど、漱石文学の全体像を明快に説明できている本は他にないのではないか。例えば、次のような箇所がある。

《即ち漱石は、『三四郎』のやり方をなぞることによって、まず第一に、先行する三部作において、三四郎という恋愛や結婚の手前にいる青年の青春(『三四郎』)、その後身とも言うべき代助が結婚する過程で陥る悲劇(『それから』)、そのような悲劇的な結婚をした代助の後身と思われる宗助の夫婦生活の危機(『門』)というように順を追って展開してきた主題の流れに逆行して、『三四郎』の段階にいる敬太郎という青年を主人公とするところまでいわば後戻りして、そこから再出発する。そして第二に、三部作において、『三四郎』の単一視点から出発し、その方法を踏襲した『それから』を経て、『門』では主人公ばかりでなくその妻や弟に視点を移動させる複数視点を用いるところまで来ていたのを、ここで再び『三四郎』と同じように、主人公の敬太郎を唯一の視点とする方法に立ち帰ることになる。》(121頁)

 こうして、後期三部作の『彼岸過迄』『行人』『こころ』へと漱石の実験は続いていく。これは、著者である松元氏の思い過しによる自分流の読み方ではある。しかし、この本を読む限り、その推理は、様々な状況証拠を用いているため、十分に読者を納得させてくれる。今まで、作品をバラバラに読んでいた人が、この本に書いてあることを知ったなら、なんでもっと早く教えてくれなかったの、とほっぺを膨らませるにちがいない。しかし、それでいい。

ぼくのように『こころ』を読んで、『坊っちゃん』を読んで、『それから』を読んで、『我輩は猫である』を読んで、という具合に、その時の気分でランダムに彼の作品を読んできた人間だからこそ、この『漱石の実験』というおどろくべき評論が存在していることに感動できるわけだ。

夏目漱石は慶応三年に生まれ大正五年に亡くなるまでの50年の人生で、小説というジャンルで壮大な実験を試みた偉大な挑戦者である。こう思うと、全集を一巻から読み通してみたくなる。いや、実際それは無駄にはならないだろう。

ちなみに、今から100年前の1914年4月から8月まで、漱石の『こころ』が朝日新聞に連載された。100年後に読む『こころ』がどんな印象をぼくらに与えるか、試してみる価値はある。

 『漱石の実験』の第五章は、「『こゝろ』論」である。副題には「〈自分の世界〉と〈他人の世界〉のはざまで」とある。松元氏は、夏目漱石の自閉的傾向について指摘している。人と人とが通じ合うということがどのようにして可能なのか、というテーマを追究することが漱石の創作の主要な動機となっているのではないかと。

そして『こころ』は漱石の実験のひとつの到達点でもある。この小説には、固有名が出てこない。「私」「先生」「奥さん」という具合に、語り手の「私」から見た人間関係による敬称だけで構成されている。さらに、それは先生の遺書のなかでも継続する。つまり語り手が主人公の青年から先生に移っても、やはり「私」、下宿の「奥さん」とその「御嬢さん」という具合に話がつづく。唯一の固有名と言える友人ですら「K」というイニシャルだけで、名前は明らかにされない。この特異な構成にどのような意味があるのかを松元氏は色々と推理している。

先生の友人Kは先生と御嬢さんが結婚する前に自殺する。時は流れ、先生も晩年になり遺書を残してこの世を去ろうとする。主人公の青年はその遺書を携えて急いで先生のところへ駆けつけようとしている。

『こころ』を読んでいるぼくらは、それに立ち会っているかたちになる。そして、人と人とが通じ合うことがとうとうできないままこの小説は幕を閉じる。

ぼくが、この小説を読んで感動したのは、この悲劇的な結末のゆえであった。これまでの道徳教育では、努力すれば心はいくらでも通じ合うということを教えてきた。しかし、漱石は「そうではない」と云っている。通じ合うことが難しいと云っているのでもない。できないと云っているのだ。

これは、十代の頃おぼろげながらに感じていたぼくの心象をぴたりと言い当てていた。それは、淋しいとか、悲しいとか、なにかセンチメンタルな感情を言い表わしているというのとは違う何かだ。おそらく孤独という言葉では表現できないような孤立の原理が、先生のなかに棲み続けていたのだろう。それを読んだ人間が、同じように孤立の原理を抱えていたとしたら、『こころ』はじぶんの唯一の理解者だと感じる筈である。こうして、「人と人とは通じ合わない」ということだけは通じる、ということが起こる。

果してそれは絶望の淵に見える希望の光なのだろうか。

こう考えてくると、『こころ』という作品のタイトルがひらがなで表記されていることが気になってくる。人間の心を描くことが主眼だったら、漢字の『心』でもよかっただろう。たとえば「こ・こ・ろ」とゆっくり分けて読むことを漱石が意図していたとしたら、ここからは邪推ではあるが、「個々路」という漢字を当ててみるのもいいし、「弧頃」という造語を考えても面白い。いずれにしても多様な解釈を読者それぞれが楽しむことで作品はより広がりを持つものなのだろう。

文豪が発見し追究した「個」の問題を、ぼくはじぶんの立場で考えてみたいと思った。


10月3日

◇銀河鉄道の汽車に乗っている  

 

ペストの流行で命を落とした人々

タイタニック号の沈没で溺れ死んだ人々

今どこにいるの

銀河鉄道の汽車に乗って宇宙の旅を続けている

第一次世界大戦で銃撃された兵士たち

第二次世界大戦で爆弾を落とされた市民たち

みんな同じ地球の上で

笑ったり

泣いたり

はにかんだりしていたよ

でも今は

銀河鉄道の汽車に乗って宇宙の旅を続けている

生きている君よ

君が見る夢の中で

ぼくは猫になり河馬になり猿になる

カムパネルラが教えてくれたね

そうだよ

この地球こそがほんとうのほんとうの銀河鉄道なのだと

 

 

10月6日

◇吸殻の唄  

 

うまそうに煙をはき出す

満足そうに火をもみ消す

そして灰皿の上

吸殻は見た

からだをよじって男の精神に寄りかかる女の卑屈なこころを

吸殻は見た

青雲の志を捨てて目標を見失った一政治家の傲慢を

吸殻は見た

考えることをやめた人々が電子の奴隷と化していく街を

吸殻は見た

反対反対と叫ぶことだけで満足して家路につく何かの行列を

吸殻は見た

人類の透明な歴史の虚しい結末を

吸殻は飛んだ

風に乗ってどこまでも

そしてひとりのホームレスの足元に辿り着き

再び火がつけられ

燃え尽きた

 

 

10月11日

◇夜空  

 

刻一刻と移り変わる空模様

月の光だけがぼくを凝視して動かない

午前3時33分

市民は寝静まっている

球体は無言で自転している

・・・

午前5時55分

都市は動き始める

球体は無言で公転している

・・・・・

午前7時77分

ぼくは集合無意識の中へ帰る

・・・・・・・

時空は異なる次元を旅している

 

 

10月26日

◇中心  

 

ボクの影よりも大きな木

木よりも大きなビルまたビル

ビル群よりも大きな街

街よりも大きな都市

都市よりも大きな国土

国土よりも大きな海

海よりも大きな空

空には巨大な雲がモクモク

大きいなあ

そんな大きな青い空の地球も

さらに大きな大きな太陽の周りを

まわっているまわっているまわっている

そして計り知れない宇宙の中に

ういているういているういている

でも

その中心にいるのは

いつだって

ボクだ

 

 

11月8日

◇雨のあと  

 

雨はあがった

けれど

こんな寒い夜に

君は

そんな薄着で

平気な顔

白い手も

細い足も

ぜんぶ夜風にさらして

いったい

どこへ行こうと云うのか

ぼくは

暖かい喫茶店の中にいて

湯気の立つ珈琲と一緒に

窓の外の君を見送る

light

night

lark

dark

それらを舌の上で何度も確かめながら

 

 

12月1日

◇12月の雨の朝

 

詩人は迷っていた

12月の雨の朝

果たしてそれでいいのか

12月の朝の雨

とした方がよいのではないか

朝を主人公とするなら

12月の雨の朝

がいいだろう

雨を強調したいなら

12月の朝の雨

で決まりなのだが

詩人は色々考えた

そして

この詩のタイトルを

次のようにすることにした

雨の朝の12月

待ちに待った12月

ぼくの大好きな12月

これからも

12月と一緒に

まっすぐに

ずっと

まっすぐに

進んで行こう

雨が好きで

朝も好きで

本当に素敵な12月

ああ

12月が始まった

 

 

12月2日

◇ポプラの歌声

 

風が吹く

ポプラは歌う

カサカサカサ

カサカサ

カサ

カサ

カサカサ

カサカサカサ

ポプラのこずえから

ひらひらと舞い落ちる

大きな枯れ葉

ぼくらの下に

隠れているのはだあれ?

うん

わたしよ

木枯らしよ

じゃあごいっしょに

カサカサカサ

カサカサ

カサ

こうして

風とポプラのコーラスは

あたりいちめんに

響きわたるのでした

傘傘

傘傘傘

傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘 傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘 傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘

 

 

12月3日

◇45周の論

 

地球に乗って

太陽のまわりを

七周したら

人はひとまず軌道に乗る

十四周したら

世界を理解したと思い込む

二十一周したら

目標をみつけ

二十八周したら

伴侶がみつかる

三十五周したら

人から頼られ

四十二周したら

一度死にたくなる

ところで君は今何周目?

僕はと言えば

石川啄木(1886─1912)よりも

宮沢賢治(1896─1933)よりも

中原中也(1907─1937)よりも

多くまわっている

だから

太陽系のことはだいたい分かっているはずなんだが

四十九周したら

やっと大人になり

五十六周したら

少し悟り

六十三周したら

健康を回復し

七十周したら

何か良いことを一つ言えるようになるかな

地球がまわり

太陽が燃えている

その地道な営みに

ありがとう

と言える日々を

この星の上で

みんな一緒に

 

 

12月4日

◇ものがたる

 

ものがたる

ものがたる

ものがたりをものがたる

おかあさんのやさしい声

ものがたりのよみきかせ

いつしかその声を

じぶんじしんでものがたる

きいてるじぶんと

きかせるじぶんがいて

少年は本をひらいてものがたる

モノローグ

モノローグ

モノトーンのモノローグ

おとうさんのやさしい声

ねむりをさそうひとりごと

いつしかその声を

じぶんにむけてモノローグ

はなしかけるじぶんと

はなしかけられるじぶんがいて

少女は夢に羽ばたく鳥になる

物語ってなんですか

お母さんは子どもたちを物語で別の世界に連れて行きます

子どもたちは大きくなるとじぶんでじぶんに語りかけるようになります

そして本の世界へ自由に往来するようになります

そしてまた親になるとじぶんの子どもに物語を聞かせます

何代もその営みは続いていきます

そして人類は大きな大きな物語の中を生きています

 

 

12月5日

◇セブンデイズ

 

日曜日の朝

孤独は公園のベンチに座って

流れる雲をみつめていた

ひとりぼっちで

月曜日の夜

淋しさは夜道を歩きつづけた

月の光に導かれながら

火曜日の昼

虚しさは空腹だった

太陽の熱に目眩を感じて

水曜日の午後

センチメンタルは涙がとまらなかった

ずっと雨に打たれたままで

木曜日の夕暮れ

あきらめは口笛をふいた

少しだけ笑顔になって

金曜日の深夜

冷静は星空に溶けていた

救いの予感を感じながら

土曜の夜明け

踏ん切りは無言で叫んだ

世界は終り

世界は始まる

いちょう並木の下は金色の道が出来ていて

小さな詩人がポロンポロンとギターを爪弾きながら

このような歌を歌ってくれた

 

 

12月6日

◇ゲップバーン

 

ヨーグルト味の

バリュウムを飲んで

寝台の上で

ごろごろ

はいとまって

おおきくいきをすって

はいとめて

ぼくは技師さんの言うがままに操られている

モルモットのように

マリオネットのように

はいこんどはみぎをむいて

とまって

もうすこしよこに

はいそこですとっぷ

胃の中の液体がたぷたぷ

ゲップをこらえてつばを飲み込む

ぼくは忠実だ

犬のように

小さなハンスのように

そうしたら

さなぎになりましょうか

そしてうちゅうへとびだしましょう

はやぶさつーにまけないで

どこまでもすすんで

しょうわくせいにしょうとつしてもひるまないでね

うちゅうたんじょうのひみつがわかるまで

かえれませんよ

お願いがあります

ゲップしてもいいですか

だめです

がまんがまん

ああ

こうしてぼくは

宇宙空間いっぱいに響き渡る

大きな爆音を腹の底から出したのです

 

 

12月7日

◇メガネを新調した日

 

メガネ屋さんにいった

新しいメガネをつくりたかった

しかし

いくら探してもぼくがほしいフレームが見つからない

店員さんも困ってしまった

「これはいかがでしょう」

「それはちょっとまるすぎます」

「ではこちらでは」

「色がちがいますね」

「……」

ぼくが探しているのは

ぼくが五歳の時にはじめてつくってもらったメガネ

幼稚園に通っている頃

母ができたばかりのメガネを園にもってきて

ほらかけてごらんと云ったけど

ぼくは恥ずかしくて

その日はとうとう一度もかけなかった

ぼくの目が悪いことを母が知ったのは

ゴミ袋をみて犬がいるとぼくが叫んだからだった

以来ぼくはずっとメガネ男子

最初の黒ぶち

次が銀ぶち

それから金ぶち

ある一時期コンタクトレンズ

そして透明

結婚してチタン

チタンが折れて青ぶち

40年の歳月が流れ

ぼくは原点に戻ろうと思った

あの黒ぶちはどこに

そして三軒目のメガネ屋さんで

あった

あったあった

ついにみつけた

ぼくの黒ぶち

これを使ってはじめから世界を認識し直そうと思う

 

 

12月8日

◇大食詩人

 

ほんとうによく食べるのです

朝から鳥をまるごと

昼には牛をまるごと

夜は豚と鮪と羊をまるごと

野菜だってばりばり食べます

けれど不思議なことにその詩人がトイレにいったところを一度も見ていないのです

それで聞いてみたのです

これだけ食べて消化した物はいったいどこへ行ってしまったのですか

すると詩人は云いました

食べたものは全部胃から脳へ運ばれます

私の場合栄養はすべて言葉に変わります

一つとして無駄にはしません

だからたくさん食べてたくさん詩をつくります

 

 

12月9日

◇イチョウの1ドル

 

夜明け前の道でおじさんはイチョウの落ち葉をせっせと集めている

街を自主的に清掃してくれているのだ

いつもご苦労様ですと声をかけると

おじさんはイチョウの葉っぱを一枚手にして

これをごらんなさいほら1ドル紙幣になっている

ええ?

ぜんぶが枯葉になるわけじゃないぞよく探せば1ドルが見つかるもんじゃはっはっは

ぼくにはそれが紙幣にはどうしたって見えやしない

ほうこれはめずらしい360円時代のやつじゃわい樹齢によってはこういう古いものまで出てくるのじゃそれは新しいから120円くらいになるかのう

おじさんはイチョウの葉を一枚ぼくにくれた

これであったかいコーヒーでも買いなさいはっはっは

 葉っぱで買物ができたらこんな素晴らしい世界はない

いやいつかほんとうにそういう世界になるかも知れない

さあこのイチョウの葉で缶コーヒーを買いに行こう

 

 

12月10日

◇月をつまむ

 

まだ朝になっていなかったのですが

西の空に月が煌煌と輝いていましたので

わたしはおもわずそれを指でつまんでのどに放り込んでしまいました

とっても冷たくてとってもすっぱい味がしました

となりの詩人が云いましたので

それは一千一秒物語の読みすぎでしょうとぼくが云うと

あたりです

となりの詩人は笑いました

 

 

12月11日

◇ゲラップ

 

咳がとまらずのどが痛い

とめたいのに

咳の方が咳をやめてくれない

ごほんごほん

咳の他にしゃっくりまでとまらずひっく

ごほんひっく

くわえてくしゃみが出たりするはくしょん

ごほんひっくはくしょん

仕上げはげっぷで四重奏げえ

ごほんひっくはくしょんげえ

もしそこであくびが来たらどうなります?

ごほんひっくはくしょんげえはあ

これぞゲラップ

ごほんひっくはくしょんげえはあ

ごほんひっくはくしょんげえはあ

ごほんひっくはくしょんげえはあ

ごほんひっくはくしょんげえはあ

 

もしこれらが同時に発生したら

ごひっしょげはあー

太陽系は大爆発

 

 

12月12日

◇話の途中

 

夢の途中という歌知ってます?

薬師丸ひろ子

そっちはセーラー服と機関銃

そうだっけ

来生たかおが歌ってる方です

それで?

うんただそれだけ

話の途中じゃん

だってそういう詩だもん

 

すべての詩はもしかして話の途中なのではないか、ふとそんなことを思って書いてみたのである。いったい人は本当に言いたいことを人に伝えることができているのだろうか。言葉にならない思いはたくさんある。言葉になったものは表面のほんのうわずみ。思いをうまく汲み上げてくれる巧みな手段として詩はある。

 

 
12月13日

◇食卓と書斎

 

となりの部屋で家族が食事をしている

誰かが納豆を混ぜている

ぼくの空腹がくるると鳴る

いい音だ

鹿の鳴き声のような

あるいは

河鹿の鳴き声のような

なやましい音だ

ぼくは本のページをめくり活字を目で追う

高橋新吉の詩が載っている

意味は分からない

テレビの音が洩れてくる

志村動物園を観ているらしい

ぼくの空腹がまた鳴る

猫の鳴き声のような

あるいは

海猫の鳴き声のような

もしくは

赤ん坊の泣き声のような

奇妙な音が

窓の外でする

 

 

12月14日

◇半分のちから

 

選挙のたびにキモチが半分にわかれる

 

選挙にいくと決めた人

選挙にいかないと決めた人

まず二分される

 

選挙にいかない人は結果のすべてを選挙にいく人に委ねたことになるから

選挙にいかない人のことはここではいったんおいておくとして

 

選挙にいく人たちは

与党支持

野党支持

二分される

 

与党を支持した人たちは

頼まれて一票を投じた人

他の人にも頼んだ人

二分される

 

野党を支持した人たちは

与党を倒そうと思う人

与党をただ支持しないだけの人

二分される

 

結果

政権が交代された場合

選挙は

与党を倒そうと思った人

選挙にいかないと決めた人

勝利

 

政権が維持された場合

この選挙は

他の人にも頼んだ人

選挙にいかないと決めた人

勝利

 

なんか少し変だな

これじゃあ選挙にいかない人はいつも勝つことになる

だからぼくは選挙が終わるたびに複雑な心境になるのだ

選挙なんかなくてもいいのではないかというキモチ

選挙にはやっぱり行くべきだというキモチ

 

半分のキモチが選挙速報を見つめている

 

 

12月15日

◇「よごれつちまつたかなしみ」について

 

中原中也の有名な詩「汚れつちまつた悲しみに……」について

このフレーズには二種類の朗読の仕方がある

ある人は「よごれちまったかなしみに」と読む

また

ある人は「よごれっちまったかなしみに」と読む

果たしてどちらが正しいのか

活字を見ると「汚れ」のあとに「つ」があるから

やっぱり「よごれっちまったかなしみに」と読むのがいいのだろう

しかし多くの人が「ちまった」の「つ」は小さい「つ」にして読むのに

「汚れ」のあとの「つ」はなぜか読み飛ばしてしまう

それには何か理由があるのではないか

「よごれっち」という音は「ストレッチ」に似ている

または「たまごっち」あるいは「パパラッチ」

 

ストレッチまった悲しみに

今日も小雪の降りかかる

パパラッチまった悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

 

ぼくは新解釈を試みる

「汚れ土舞った悲しみに」と読むのはどうだろう

「汚れ」「土」「舞った」

けがれた土ぼこりが舞うそんな悲しみのことを歌った詩

浄土と穢土

中原中也はその狭間に生きていたのではなかったか

 

 

12月16日

◇雪の歌

 

あっちにふった雪がほんのすこしこっちにもふりました

 

死んだ詩人たちがソフトをかぶりながら並んで歩いています

ある詩人は黒いソフトで

ある詩人は白いソフトで

 

白秋のうえにふる雪が

中也のうえにもふりました

死んだ詩人たちは舞い落ちる雪を舌の上にのせてペロリと舐めます

 

あっちにふった雪がほんのすこしこっちにもふりました

 

 

12月17日

◇汚れと汚れ

 

「汚れ」という字は

「よごれ」と読むけれど

「けがれ」とも読む

中原中也はどっちで読んだのか

よごれっちまった悲しみに

なのか

けがれっちまった悲しみに

なのか

中也宗よごれ派は多数派で中也宗けがれ派は少数派である

しかし

けがれ派は音声的には優位にあるようだ

実際に「けがれ」で朗読してみたまえ

 

けがれっちまったかなしみに

きょうもこゆきのふりかかる

けがれっちまったかなしみに

きょうもかぜさへふきすぎる

 

どうだいこの四行だけでもKの音が耳に残る

つまり

「よごれ」よりも「けがれ」を選ぶことで

カ行の音による統一感をこの詩に与えることができるわけだ

さあ中原いったいどっちで読ませたかったんだい

と小林が訊いてきたら

みんなが「よごれ」で読んでくれているのに今更「けがれ」はないだろう

と答えたかもしれないね

先例は北原白秋の詩にもあるわけだし

 

 

12月18日

◇走る走る12月

 

師走が加速度を増して駆けてゆく

速いんだなこれが

どうしてこんなに速いのか

荷物を積んで運んで配って

データの入力出力

仕分け仕分け仕分け

物を取りに行き物を引き取り物を渡す

買物お迎え会合と続き

一息つく間もなく駐車場へ

車の荷台に荷物を載せて

走る走る12月

腕も肩も足もぷるぷる筋肉痛

人も車も電車も犬も走る走る12月

はええなあ

師走よ

 

 

12月19日

◇冬の窓

 

冬の午後

西から差し込む黄色い光が

ギターの弦に触れると

だあん

と小さな音がして

窓の外の銀杏の木は

かすかに揺れる

 

君はヴェルレーヌのような顔をして

ブランデーの入った紅茶をすすります

 

温度・色・音・臭い・味

五感を刺激する言葉で詩はできる

窓外は寒いけれど日の光は暖かい

黄色い光がギターに当たっている

銀杏の葉っぱも黄色

ギターの弦の響き

木が風にゆれる音

ブランデーと紅茶の香り

そして味

 

あなた なぜ詩の説明なんかするの

ごめん つまらなかった

紅茶 さめちゃったわ

 

冬の窓の向うでそんな会話が聞こえてきます

 

 

12月20日

◇じとぎ

 

うなじ

うなぎ

 

一字のちがいでこんなにちがう

うなぎは蒲焼にできるけど

うなじの蒲焼はだれも食べない

 

せいじ

せいぎ

 

漢字に直せば政治と正義

正義に妥協はないけど

政治は妥協の連続

 

 

 

意味しているもの

意味されているもの

 

 

 

 

 

 

12月21日

◇強迫観念

 

ドアをあけると

顔が少しむくれた母が

父に付き添われて立っていた

ちょうど親戚が集まっていたので

みんながいる部屋まで案内すると

だれも母に気づかない

子どもたちも声すらかけない 

いつもなら「おばあちゃん」と云って

うれしそうに近寄ってくるのに

母は意味不明なことをくちばしっている

父の顔がこわばる

よくみると父は見たことのない人

なんでこの人をぼくは父だと思ったのだろう

母の顔もだんだん母には見えなくなっている

だれなんだこの人

見ず知らずの両親の出現で

ぼくらのクリスマスパーティーは

異様な空気に包まれていた

 

 

12月22日

◇得体

 

なんとなくよく寝た

目が覚める瞬間

じぶんが何者か

ここはどこか

いったい何が起きているのか

ぜんぶ忘れていた

しかし

自意識はただちに認識を開始する

キミハニンゲン

ココハニホン

コレカラオキテトイレニイキ

モウイチドネル

記憶がなかったら

いったい何をすればいいのか

分からない

世界が何のためにあるのか

自分とはなんなのか

ぜんぶ分からない

それは大きな恐怖だ

 

 

12月23日

◇詩論

 

詩には

歌があるよね

リズムがあるよね

テンポがあるよね

旋律があるよね

間があるよね

それに

絵があるよね

イメエジがあるよね

フォルムがあるよね

心象があるよね

空があるよね

それに物語もあるよね

それに理屈もあるよね

それに遊びもあるよね

それに会話もあるよね

それに美学があるよね

それに哲学があるよね

それに歴史があるよね

それに科学があるよね

詩は

人を導き

人を欺き

人を慰め

人を惑わせ

人を鼓舞し

人を奈落の底へと突き落とす

それでいい

それでいいんだよね

 

詩って詩的だよね

 

 

12月24日

◇非サンタ

 

クリスマスソングには名曲が多いよね

きょうはオリジナルのクリスマスソングをつくろう

いいね

でもメルヘンチックなのはやめよう

どうして?

ありきたりなものじゃ今までの名曲には勝てないし

そう

それからロマンチックなのもやめよう

なんで?

甘いメロディを考えるのって恥ずかしいし

はあ

センチメンタルなのもだめ

そうなの

他にいっぱいあるから

だったらどんなのがいい?

ちょっと過激な感じで破壊的なのはどう

たとえば?

サンタが飢えて死にそうになる

わお

こんな風に

 

プレゼント配り過ぎて

食べるもの一つも残ってない

そこでサンタ 

仕方なく

長年連れ添ってきたトナカイ 

丸焼きにした

 

ちょ、ちょっとそれひどくない?

 

トナカイの丸焼き

けっこういける

これひとりで食べるの

もったいないから

袋につめて配ろうと思った

でもそりを引くトナカイいない

そこでサンタ

じぶんでそり引いた

 

まぬけでしょ

 

サンタは気づいた

トナカイの仕事

けっこうたいへん

今までわしはどんだけ楽してきたことか

ああなんと罪深い

ああなんと無慈悲な

 

それからサンタ

トナカイの角

じぶんの頭に突き刺して

四つんばいになって

そりを引き続けた

重たいトナカイの肉乗せて

 

非サンタ!

 

 

12月25日

◇父と娘のかけひき

 

むすめの枕元に靴下があって

なかにメッセージカードが入っていた

「サンタさんへ

わたしがほしい物ベスト5

1.    チェキ

2.    すみっコぐらしグッズ

3.    タブレットに新しいアプリを入れる

4.    ウォークマン

5.    ぷよぷよ!! Wii

いつもいい子にしているSより」

クリスマスにはプレゼントがもらえると

教えたことなんか一度もないのに

パパはサンタにならなくてはならない

1から5の中から

ぼくは5を選んで買ってきた

むすめは小躍りして喜んだ

やったあいちばんほしかったものがきた

ぼくは知っていた

むすめはサンタの裏をかくために

わざと順番を逆に書いたことを

むすめも知っていたにちがいない

5番目の確立が一番高くなるってことを

 

 

12月26日

◇スマホ戦隊ナニミテンジャー

 

一年の終わりが近づいている

せわしくせわしく人は往復

右からくる電車も牛牛

左からくる電車も牛牛

税務署で納税証明書を発行してもらったぼくも

子どもたちからの腹減った電話に呼び戻されて

山の手線に飛び乗ったわけだが

座席に座っているおばさんたちも

つり革につかまっているおじさんたちも

スマホ

スマホ 

スマホ

人差し指のダンス

この光景に慣れてしまった現代というものに

ぼくは少し苛立ちを覚え

決起

目の前に座っているお姉さんのスマホを皮切りに

そこらじゅうの画面に

タッチ

タッチ

タッチ

スマホ戦隊にゲリラ戦を挑んだのである

ある画面はゲーム

ある画面は検索

ある画面はメール

ある画面は音楽

タッチ

タッチ

タッチ

きゃあ

こら 

なにする

ぼくはじぶんの反抗を正当化したい

常識はこちらにある

しかし多勢に立ち向かうのは我ひとり

車内の怒号から逃げ出すしかないわけで

電車の扉が開いた瞬間

走れ

走れ

我が闘争

逃げろ

逃げろ

我が妄想

この行為の是非を問うために

小林秀雄の「常識」という一文を参照されたし

 

 

12月27日

◇珍客

 

客人はハムソーセージを持参して

わが家にやって来た

年末にわざわざ挨拶に来てくれたのだ

ぼくが「サカナクションいいよね」と云うと

客人は「十大弟子なら迦葉でしょう」と云う

ぼくが小林秀雄の『考えるヒント』を出すと

客人は中原中也の『山羊の歌』を見せる

 

人は詩を読んでいる時に曲は聴けない

同様に

人は曲を聴いている時に詩は読めない

ではなぜ

人は歌を聴いたり歌ったりするのだろう

 

ソーセージをかじる

ブランデーをなめる

 

客人は明日新幹線で帰郷する

ぼくは仕事を残しているので30日まで働く

 

 

12月28日

◇義理の妹の結婚式

 

ぼくの妻には二人の姉と二人の妹がいて

いちばん下の妹がとうとう結婚した

お相手はぼくの後輩

その後輩の叔父にあたる人はぼくと妻の恩人である

深いつながりがあって

両家は顔を合わせた

ホテルの28階からの眺めは素晴らしい

湾岸が見える

船が見える

高速道路を走る車が見える

夕方から夜になる

泣いた顔

笑った顔

はしゃぐ顔

思いやる顔

子どもたちのハンドベル

温かい父親の歌声

いつもの挨拶と久しぶりの会話

そして深い夜をぼくらは深海魚のように泳いでゆく

 

 

12月29日

◇母音の石鹸

 

ああ

あい

あう

あえ

あお

 

本能の中のエトセトラ

 

おあ

おい

おう

おえ

おお

 

全部シャボンになって

 

うあ

うい

うう

うえ

うお

 

 

12月30日

◇今月の出来事をふりかえる

 

誕生日にメガネを買った

解散総選挙があった

ケータイの機種を7年ぶりに変更した

良い土地をみつけた

詩の勉強会に出席した

お世話になった人の葬儀があった

親戚の結婚式があった

そして

毎日詩を書いた

明日は大晦日

紅白を観るだろう

お酒も飲むだろう

それから

そばを食べるだろう

さて読みきれていない本がたまっている

きょうは読書だ

よんで

よんで

よんで

よんで

よんで

ヨオオオオオ

 

 

12月31日

◇一つの説教

 

いいことばかりではない

言われなき中傷だってされる

頭ごなしに叱られることだってあるし

揚げ足を取られて倒されるばかりでなく

その足を捻られ

4の字がためでギブアップする羽目になることだって

無きにしも非ず

「なきにしもあらずってどういう意味ですか?」

そう言われると困る

「昔の言葉は使わなくなるとだんだん意味も分からなくなります」

頑是無い

「わかりません」

がんぜないはすっかり使われなくなったな

あどけないなら分るね

「幼いとか幼稚とか……」

そうだ

面白いことにみんな「ない」がついている

「詮無いって言葉もありますね」

それは甲斐がないという意味だが今はほぼ使ってないよ

「不甲斐ないは甲斐がないの否定ですか?」

ちがうね

それは腰抜けってことだ

他にも

切ない

やるせない

やれきれない

「悲しくて悲しくて……」

サトウハチローだそれは

「あどけない空の話である」

そっちは高村光太郎

「思ひ出ばかりはせんなくて」

萩原朔太郎だな

「元是ない歌」

中原中也

「さすがは先生」

うん?

それは誰の詩だっけかな

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