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平常心は善か悪か?

 ぼくは毎日、仕事が終わる時に手帳の下に3行日記を書いている。
 3行日記とは、一日にあったことなどを3行で書くというもので、書き方にはルールがある。
 1行目には、「今日のよくなかったこと」を書く。
 2行目には、「今日のよかったこと」を書く。
 3行目には、「今のしたいことや目標、興味」を書く。
 というルールだ。
 この作業で1日を振り返ることによって、頭が整理され、気持ちが前向きになるとも言われている。
 
 仕事おわりに、いつも書いているのだが、ある日、仕事の人間関係でしんどくなった時の日記の3行目に、
 「いつも平常心でありたい」
 と書いた。

 ぼくは人と接するときに、その人の声の調子や表情などを必要以上に読み取ってしまうクセがある。
 表情や目の色が少しでも曇ったりでもしたら、ぼくの話に興味がないんだろうな、と察したりしてしまう。
 そして、相手の表情の変化によって、僕の心も傷ついたり、悩んでしまうことがしょっちゅうではないけれども、比較的よくあるのだ。

 その日もそんなことがあって、日記の3行目に「平常心」と書いたのだ。
 相手に惑わされなければ、相手の声や表情を気にせず、平常心でいられたならばどんなに楽だろう、と思ったのだ。

 思えば、平常心を保つことが成功の秘訣である、的なことがあらゆるところで言われている気がする。

 しかし、ふと思った。平常心でいることは、心の動きも小さくなることかもしれない。
 相手に惑わされず、自分の心に波を立たせず、冷静に物事を進めていくことにつながるのだろうが、いつもいつもそんなんでは、確かに楽かもしれないけれども、楽しくはないんじゃないか、と思ったのだ。
 いつも冷静で、物事に対して顔色ひとつ変えずに対処していく人を見て、うらやましく思うことは、正直ある。
 その一方で、「だが、しかしな・・・」と思うこともあるのだ。

 小さなことに一喜一憂するのは、しんどいかもしれないけれど、それが生きるという醍醐味のひとつなのかもしれない。

 人間だもの。

 思うのは、一喜一憂した後に、いつまでもいつまでもくよくよしてはいけない、ということなのだと思う。くよくよしてても、解決はやってこない。
 一旦は傷ついて、苦しんで、そして悩んで、そのあとに前を向いて歩き出す。解決方法を見つけ出す。その一連の過程において、人は成長していくものだと思う。

 物事を成し遂げるためには、平常心はもちろん大切なものであるだろうけれど、もしそれが自分の気持ちや感情を必要以上に押し殺して生まれたものであるのならば、それよりもむしろ、自分の心としっかり向き合って、心が乱れた原因にきちんと寄り添いながら生きる方が、生きる甲斐があるのではないだろうか、と思うのだ。

 それはそれで、とてもしんどいことかもしれないけれども。

読んでいただいて、とてもうれしいです!