2022年2月の記事一覧
【短編小説】ある老人の一日 ⑤ (終章)
→ ある老人の一日④ はこちら
夕方になり、老人は部屋の中でひとり焼酎を飲んだ。アパートに住んでいる者はみんな出ていき、残っているのは自分だけになってしまった。もう誰の声も聞こえなかったし、自分の出す声や音が誰かに伝わるということもなかった。
少し前に激しい夕立があり、ときおり湿気を含んだ風が、開け放たれた戸を通じて吹き込んできた。
煙草に火をつけた後、ペットボトルから焼酎をカップに注
【短編小説】ある老人の一日 ④
→ ある老人の一日③ はこちら
蝉が鳴いている。蝉の声を聞くと、子どもの頃を過ごした田舎の景色が思い出された。同時に、生い茂った草むら、草のにおい、川のせせらぎを感じる。夕暮れに鳴くヒグラシの声。田舎へ行き、幼い息子にヒグラシの声を教えてやったこともあった。しかし、半分都会のこの街で聞く蝉の声は、田舎で聞いたのとは違う、どこか暴力的であるようにも感じられた。
老人は、草履をはいて外に出た。
【短編小説】ある老人の一日 ③
→ ある老人の一日① はこちら
→ ある老人の一日② はこちら
ケースワーカーは、最後に封筒を置いていった。市からの給付金の申請用紙だった。生活保護を受けている者にも一律に受給できる、国のバラマキ政策のひとつだった。正木という若者は「中の書類に必要事項を記入して郵便で出すように」と言い残して帰っていった。
正木が帰った後、老人はしばらく動くことができなかった。食欲もなく、近くにあったコッ
【短編小説】ある老人の一日 ②
※前の回の内容は、この記事最後のリンクからお読みいただけます。
・・・・・
老人はベッドに腰かけながら、ケースワーカーに言った。
「ケースワーカーの家庭訪問は、急に行くから意味があるんですよ。約束して訪問なんてしたら、本当の生活実態が見られないじゃないですか。」
老人は、煙草に火をつけた。
「病院には行きましたか?」
正木は強い口調で老人に尋ねた。正木は老人の前に立ったまま、部屋の
【短編小説】ある老人の一日 ①
老人にはもう、時間なんてあってもなくても同じようなものだった。春のあとには夏が来て、次に秋、冬と来て、また春が来るだけのことだった。振出しに戻る、だ。一日にしても、同じことだ。ただ、晴れの日と雨の日と、その間にそうでない日とが混じるだけであった。
真夏のある日、黄ばんだ小さい窓を通して入り込んでくる、弱い陽の光の中目を覚ました。暑いはずであったが、空気の温度にさえ感じ方が鈍くなってきていた。