見出し画像

裸族と常識と親

嫁と話をしていたら裸族の話になった。
裸族といっても未開の地の住人の話ではなく
家庭内を裸で過ごす習慣を持つ人たちの事である。

「私は無理。家族の裸なんて見たくないでしょ」

「たしかに、親の裸は見たくないなぁ」

「裸でそこいらに座るんでしょ?それもイヤ」

「そうだね。下着くらい穿いてほしいけど」

「子供はさ、イヤじゃないのかなぁ。裸族の家」

「うーん、生まれたときからそういう環境なら
“これが当たり前”って認識で育つのかもね」

裸族の家庭で育った子供はいずれ
一般的な家庭を見たときに驚くのかもしれない。

(あれっ、ウチと違うぞ?家でも服着るの?)

そのとき「ウチはウチ、ヨソはヨソ」と
すっぱり割り切ってしまうのか

「えっ、もしかしてウチって変なの?」と
自分の常識が揺らぎ価値観が変わってしまうのか
どうなるのかはわからない。

私がここで言いたいのは
誰もが認める常識なんて存在しないということ。

たとえば、暴力や体罰はいけないという風潮。
なにをするにもコンプライアンスを第一に考える
令和の現代からすると当たり前すぎることだけど
昭和の時代では体罰は「しつけ」で通っていた。
なにしろ男と男が河原で殴り合って友情を深める
といった光景が肯定されていたくらいだ。

結婚観だってそう。
現代では30歳を超えてから結婚するのは普通だし
離婚も再婚もしたところで世間は全く騒がない。
むしろ結婚しないで独身でいることさえも普通。
「結婚しないなんて異常!」と後ろ指をさされた
昭和の時代からすると考えられない常識である。

このように常識なんて時代と共に常に変わるし
社会、学校、家庭といった各コミュニティ内で
それぞれの常識が違うことなど日常茶飯事。
ゆえに誰もが認める常識なんて存在しない
なのである。

それをふまえて私が言いたいのは
親の言うことを全て鵜呑みにするのは良くない
である。

親というのは子供にとって特別な存在。
何しろ生まれたときから常に傍にいてくれて
喜びも、悲しみも、怒りさえも共有する存在。
子供の心と身体に多大なる影響を与える存在。

冒頭の裸族の家庭の例からも分かるように
親の常識はそのまま子供の常識に影響を及ぼす。
そりゃあ、親の作った家庭で親が主体となり
親と子が一緒に長い時間を暮らすのだから
常識が親主体となるのは当然といえば当然。

子供が「〇〇君のウチではこうしてたよ」と
言った所で一喝か、黙殺されてしまうだろう。
だって親には親の常識と信念があるのだから。

子供だって、(基本的に)親が好きなのだから
わざわざ親の言うことに逆らうことなんてない。
親が怒る姿なんて見たくないし叱られたくない。

それでは、全て親の言う通りにしていれば
子供は健全に真っすぐ育つのかと言ったら
そんなことはない。

どんなに裕福で、人格者と呼ばれる親がいる
家庭であっても、子供が生涯幸せで居続ける
保証なんてない。そんなもんあるわけがない。

だって親と子供は別の人格を持った人間だから。
親が思う幸せと子供が思う幸せは同じじゃない。

「これがお前のためなんだよ」といって
子供を無理に言いくるめるケースで
子供が幸せになる事例ってそんなにある?

親の言う通りに人生を生きた子供がいたとして
それは自分の人生を生きたことになるものか?
私はそうは思わない。

・・・ああ、私は別に
親は全てクソだ!と言いたいんじゃない。
子供に大変良い影響を与えてくれる親もいる。

子供は、ある程度心が成長したら
親の言うことを鵜呑みにして思考停止せずに
自分なりの常識をしっかり考えてほしいのだ。

「親が言うから、これをやる」ではなく
「親が言うけど、どうしてだろう?」と
常識を疑ってみてほしいということ。

常識を疑うことで意識はアップデートされる。
時代と環境に合った常識を自分の物にできる。
それが人の心の成長ってものじゃなかろうか。

とはいえ、たいていの子供はやってるんだよ。
常に意識のアップデートを。それくらい子供は
優秀で素晴らしい成長機能を標準装備してる。

それが如実に表れるのが『反抗期』。
バチバチに親と子供が衝突するアレ。

(なんか変だ、なんか嫌だ、なんか不快)が
うまく言葉にできなくて感情が暴走するから
物に当たり散らしてしまうこともあるけども
あれはとっても良い子供の心の成長の傾向。

そのとき、親はしっかりと向き合ってほしい。

そそくさと逃げるんじゃなく
怒鳴って一方的に説教するのでもなく
子供の大事な成長の場面を受け止めてほしい。

これは私事で今でも覚えているけど
その時しっかり受け止めてくれた母のことは
いまでも大事に思っているし尊敬している。
向き合ってくれなかった父は尊敬できない。

だから私は今でも母の常識を尊重している。
「嫁ちゃんとケンカすることもあるだろうけど
あなたはしっかり折れてあげるのよ」
という教えをいつまでも忘れない。
それが正しいとか正しくない、とかではなく
尊敬している母の言葉を大事にしたいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?