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Vol.20 愛しているとは言わない

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。
もしご興味がありましたら、ぜひ。


あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。

はじめての方は、こちらからどうぞ。

Vol.1  兎を追いかけ

前回のストーリーは、こちらから。


Vol. 19 ゴルゴダの丘を登れば

本編 Vol.20 愛しているとは言わない

 季節はいつのまにか12月になっていた。はじめてレッスンを受けたときから3か月ほど過ぎていた。冬の空はくっきりと青く澄んでいて、深い海の底にいるようだった。アルバイトやら期末テストやら就職活動やら、そんなものはどうでもよかった。未来というものを僕はもう信じていなかった。ハッピーエンドなど来なくても、今だけはアリスがここにいてくれる。それ以上何を望むことがあるだろう。時間が一直線に進む世界に背を向け、僕は永遠という幻想の中に閉じこもっていたかった。あまく暗い海の中でねむる魚みたいに。
 


 森田嵩幸からは不思議と音沙汰がなかった。あれだけ足繫く当人の家に通っているのに、彼と顔を合わせることもなかった。アリスと会うのは主に平日の午後だったから、当然と言えば当然かもしれない。僕だって間男でございとばかりに彼の前に姿を現す理由はなかった。けれど腹の中には黒々としたいやなものがいつも巣食っていた。奇妙なことだが、アリスと僕の関係が露呈すること以上に、森田の語ったことが真実かもしれないという可能性を僕は恐れた。「ふたりのアリス」という言葉が、時折呪いのように頭を掠めて去っていった。


 ある金曜日の午後、僕はふたたび森田家を訪れた。その日は朝から小雨が降っていた。空は色を失って翳り、空気は冷たく尖っていた。時折、遠くの方で犬が吠えた。そこかしこにぼんやりと街灯が点っていた。傘を持っていなかったので、パーカーのフードをひょいと被って小走りに家に向かった。インターフォンを鳴らすとアリスが応じた。
「あら、誰かと思った。その格好、犯罪者みたいね」彼女はくすくす笑いながら言った。
僕はきまり悪くなってフードを脱いだ。するとどこからか赤い点のような光が現れ、僕の爪先から頭のてっぺんまで隈なく照らし出した。なんだか空港で荷物チェックを受けているみたいだ。
「最近物騒だから防犯カメラを新しくしたの。気にしないで」とアリスは言い、解錠ボタンを押した。
鉄柵が重々しく開き、僕は邸内に足を踏み入れた。靴がじんわりと濡れていて気持ちが悪い。足の指先が氷のようだ。吐く息が白い。寒さがしんしんと身に沁み込んでくる。僕は歩く速度を早めた。



 室内に入ると別世界のように明るく、暖かかった。アリスは水滴で曇った窓に息を吹きかけて何かの模様を指で描いていた。それから僕を見てにっこりと笑った。僕も微笑んだ。彼女はバスルームからタオルを持ってきて、仔犬でも抱くみたいに僕を包み込んだ。タオルからはラベンダーの匂いがした。その香りに包まれたまま、僕はゆっくりと寝室へ導かれた。

 彼女の躰は乾いていた。汗ひとつかかず、息は乱れず、肌はつるりとしていた。このひとが排泄をしたり、鼻をかんだり、生理になったりすることなんてあるんだろうかと疑わしくなるほどだった。彼女はそういったぬるぬるとした機能を持つ躰から一切解放され、ただ鑑賞されるためだけに造られた陶器の人形のようだった。

 ところが僕の体液はいつでも熱かった。それは彼女の躰の冷たさを汚す下卑た熱のように思われた。時折、僕はヴィーナスの女神像を抱いているような気持ちになった。所有することの決して許されない何かを、僕はこの手で汚している。いけないことだと思えば思うほど、躰に火がつく。せめてアリスが同じ炎を共有してくれれば胸の痛みが癒えたかもしれない。けれど無頓着に躰を預けたまま、相変わらず彼女はつるんと白い顔をしているのだ。いやらしい虫に蜜を吸われている百合の花みたいに。


 行為が終わると、彼女はさっとベッドから起き上がった。そしてシャワーを浴び、服を着替え、髪を整えると窓辺に立った。窓の外には、雨に濡れた緑や黄色の葉が絵画のように広がっていた。彼女はその景色を何も言わずに長いあいだ見つめていた。窓枠に置かれた白い指や、華奢な背中、ひかりを吸って輝く亜麻色の髪が風景の中に溶けてしまいそうだった。僕は彼女を後ろから抱きしめ、耳に小さく口づけをした。彼女は黙ってされるままになっていた。僕はひとこと「帰るよ」と言い、家を後にした。坂道をくだる途中で窓を見上げると、やはりそこにはアリスがいて、無表情に庭を眺めていた。遠くから見ると誰かが仕舞い忘れたマネキン人形のように見えた。

 「愛している」と言わないことが礼儀であるみたいに、僕らはそうした言葉を交わさなかった。けれど彼女も同じ気持ちであると、僕はどこかで信じていた。世間知らずの青くさい男だと言われればその通りかもしれない。でも躰を重ねれば、心だって淡い影のようについてきてくれるのではないかと僕は思っていた。


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