見出し画像

Vol 11 アリスの日記 わたしは自由をおそれはしない

習作『アリスのための即興曲』というのを書いております。もしよろしければ。↓

あらすじ

大学3年生の坂本は、華道の講師である祖母とふたり暮らしをしている。
ピアノを弾くことが趣味の、どこにでもいるような学生だ。
ある日偶然見つけたフランス語レッスンの張り紙を頼りに、彼は古びた洋館へと向かう。
レッスンを担当するのは、アリス・デュボワというフランス人の女性だ。
彼女はレッスン料を請求しない代わりに、毎回、不思議な頼み事をする。
坂本はアリスに惹かれながら、抗いがたく「兎穴」という闇の中に引きずり込まれていく…。



これまでと、これからのストーリー

Vol.1  兎を追いかけて
Vol.2  架空の街の洋館
Vol. 3 レッスン
Vol.4  ロマンティックなワルツとオットの侵入
Vol.5  アリスの日記
Vol.6  甘えん坊のピアノと、冷蔵庫の中のブルーベリー・ショートケーキ
Vol 7. 生まれたてのゴマアザラシ、あるいは中山伊織という女
Vol.8 天邪鬼な蛇
Vol.9 そこにいないアリスは物語を語る
Vol.10 ひかりとあまい泥
Vol.11  アリスの日記『わたしは自由をおそれはしない』
Vol 12  僕はまっとうな人間になれない
Vol.13 坂本、オットに会う
Vol 14  敵なんてはじめからいなかったのかもしれない
Vol15 虚構の家の幽霊

本編 Vol.11 アリスの日記 わたしは自由をおそれはしない


いま わたしは フランスに います。
フランスは とても いいてんきです。
たいようは…

Ah j’en ai marre d’écrire en japonais !
Maintenant que je suis en France, pourquoi faire des efforts pour ce pays si lointain ? 
Je me sens libre comme un oiseau ! 

【読者の皆さまへ】

アリスは日本語で日記を書くのがいやになり、途中からフランス語に切り替えたようです。
ここから先は彼女のフランス語の日記を日本語訳したものをお届けします。

【アリスの日記】
ああ、日本語で書くのなんてやめた!
今はフランスにいるんですもの、あんな遠い国のために努力する必要なんてあるかしら?
鳥のように自由な気分だわ。

ここに来てから一週間が過ぎた。
時間が過ぎるのはあっというま。
パパやママにも会えたし、昨日はリディアとバーに行って、たくさんお酒を飲んだ。
彼女とは何でも語り合える。
誰にも言えなかった秘密も、馬鹿げたことも、何でもかんでも。
時間が過ぎてもずっと変わらない、大好きなともだち。


これを書いているのはお気に入りのいつものカフェバーなんだけれど、
さっき、知らない男の人に話しかけられた。
なかなか感じのいいひとだったから、ちょっと話して、それから連絡先を渡された。
「もしよかったら今晩いっしょにディナーでもどうですか?」だって。
まあ、すっごくタイプってわけじゃないんだけど(日焼けした肌を露出したがるタイプのマッチョ男に知性をちょっとだけプラスした感じ)、話し相手もほしかったし、ちょっと冒険してみてもいいかも。


こんなことリディアに言ったら、また怒られちゃう。
「あなたは人妻だっていう自覚がないの?」って。
彼女ってどうしてあんなに古風なのかしら。
おばあさんじゃあるまいし。
わたしだってもう大人なんだから、ティーンエイジャーみたいに羽目を外したりはしない。
ただ、大人の男と女が食事に行くっていうだけで、どうしてそんなに非難されなきゃいけないのかしら。

「日本では、わたしはすっごくいい奥さんなんだから」って言い返してやったけど、彼女は信じていないみたい。
「あら、そうですか。でも、あなたのことだからまた気になる人でも見つけたんじゃないの」だって。
いやあね、何を想像しているのかしら。


ああ、せっかくのピニャ・コラーダがぬるくなってしまう。
今は何も考えずに、この瞬間を楽しみたい。
太陽がもうあんなに高くなっている。
率直な陽射し。
自由をたっぷり含んだ風。
どこまでも青く、きっぱりと澄んだ空。
肌がフランスの風をぐんぐん吸い込むのがわかる。
やっぱりわたしは骨の髄からフランス人なんだと思う。


わたしがタカユキと結婚して日本に行くと決めた時、リディアはちょっと涙ぐんでいたっけ。
おめでとう、よかったわね、と言ってくれたけれど、彼女のことをよく知っているわたしは
それが本心じゃないってことをちゃんとわかっていた。
彼女とふたりでお酒を飲んだ時、「タカユキにフランスに来てもらえばいいじゃないの」と冗談交じりに彼女は言った。
「そうしたら、あなただってフランスにいられるわ。あなたが旦那さんの
    愚痴を言いたくなったらいつでも聞いてあげる」って。
でもその後に笑って「うそ、うそ。今のは冗談」と言ったっけ。
「あなたなら、日本でもきっとうまくやっていける。幸せになってね」と彼女は言って、わたしを抱きしめてくれた。わたしはその優しい嘘と、熱い涙と、彼女のイブ・サンローランの香水の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。


あれからもう五年も経ったなんて信じられない。
日本に来てから、はじめの一年はあっというまに過ぎた。
何もかもが目新しくて、24時間営業しているコンビニエンスストアや、ものすごい騒音のゲームセンターや、いつだってぴかぴかに磨かれている駅のエレベーターの手すりやなんか、そういったことにいちいち感心して目を見張っていたっけ。
タカユキは毎週土曜日に、きまってどこかに連れ出してくれた。
青山通りのブティック、表参道のイルミネーション、原宿のクレープ屋さん、横浜の中華街、逗子の海、
時には遠出して箱根まで出かけたりした。
ロマンティックなディナーや、素敵なワンピースや、ふと気まぐれで買ってくれた花束や。
そういったものはいつしか消えて行ってしまった。

近頃のタカユキは夜遅くまで働いていて、いつも疲れていて、不機嫌だ。
たまに金曜の夜にお客さんを呼んでくるかと思うと、「酒とつまみでも用意しといて」って言う。
いつもはフランス語で話しているのに、そんな時だけなぜか彼は日本語を使う(おかげでわたしはこの「ツマミ」という日本語が大嫌いになった)。
「ほらアリス、お客さんにお酒注いで」だの、
「そろそろデザートでも出してよ」だの、
わたしは召使じゃないのよ。
お客さんたちはみんな真面目そうな日本人で、高そうなスーツをびしっと着こなしている。
「奥さん、お綺麗ですね」とか
「日本語お上手ですね」とか
おべんちゃらを言ってくれるけど、ほんとうはみんな若手社長に気に入られたいだけ。
わたしは難しい会話はわからないから、ただお人形さんみたいににこにこ笑っている。
魂のない人形。
モリタタカユキの妻という記号。
わたしが何者で、何を考えているか、どう生きてきたか、誰も興味を持っていない。
ああ、もう、疲れてしまった。


いやあね、せっかくフランスにいるのに、わたしったら何を考えているのかしら。
悲しいことは考えずに、楽しいことを見つけましょう。
太陽は燦々と輝いているんだもの。
今日いちにちを無駄にしてはいけないわ。
そうね、やっぱり、さっき声をかけてきたあのひと(名前を忘れちゃった)に今晩会ってみようかな。
きっといい気分転換になるわ。


あ、メールだ。誰かしら。
ああ、サカモトさんね。
えーと、ああ、日本語、漢字、今は読みたくない。
でも、なんて書いてあるのかちょっと気になるわ。
がんばって読んでみようかしら。

「アリスさん、

メールをありがとうございました。
お元気ですか?
フランスの生活はいかがですか?

ぼくは元気です。
フランス語もがんばっています。

どうぞ、楽しい時間をお過ごしください。
アリスさんが帰って来るのを楽しみにしています。
それでは、また」


ああ、そんなに長い文章じゃなくてよかった。
わたしは会話するのは得意なんだけれど、漢字を読むのは未だに疲れる。
なんだって日本人はあんなに複雑な文字体系を生み出したのかしら。
漢字は中国から来たものらしいけれど、わたし、中国では絶対に暮らしていけないわ。


まあ、それはともかくとして、サカモトさん、元気そうね。
彼はいいひとだと思う。
わたしのお願いをいやな顔ひとつせずにみんな聞いてくれるんだもの。
今度、とんでもなく難しいことでも頼んでみようかしら。
「わたしを月に連れて行って」とか。
どんな顔をするかしら。
また、きっと生真面目なあの顔で一瞬考えて、それからきっと顔をくしゃくしゃにして笑うんだろう。
笑った時の顔がたまらなく可愛い。
でも、一番好きなのはピアノを弾いている時の顔。
何もかもすべて忘れて、ただ、その時だけに気持ちを傾けているあの一瞬の瞳のきらめき。
指先からこぼれ落ちてくる魔法のようなメロディー。
彼の躰が、全身全霊が、リズムを刻む。
そう、それが見たくて、わたしは彼にピアノを弾いてと頼むんだわ。


女の子みたいにつるっとした肌や、無造作に見えるけれど丁寧にセットされた髪型とか、趣味のいいシャツに包まれた薄っぺらい胸板だとか、そういうところは、やっぱり日本人の男の子って感じね。
まあ、そういうのも悪くないけれど。
ガールフレンドはいるのかしら。
結婚したら、きっと優しい旦那さんになるんだろうな。
それともタカユキみたいになってしまうんだろうか。
男のひとって不思議ね。
どうして結婚したらあんな風になっちゃうんだろう。
昔はあんなに優しかったのに。
それとも、生まれたときは天使のように可愛らしかった赤ちゃんが、
やがて思春期になって声変わりを迎え、ひげが生え、だんだん男らしくなっていくのと同じように、男のひとには結婚後に第三次性徴というものでもあるんだろうか。
だんだん意地悪な、ふてぶてしい、粗野なおじさんになっていってしまうのが、自然の摂理というものなんだろうか。
もしそうだとしたら、時の流れって残酷ね。

ああ、わたしったらダメね、さっきからどうして悲しいことばかり考えてしまうのかしら。
まるで結婚を人生の墓場であるかのように話す女性たちを、日頃からあんなに軽蔑していたくせに。

きっとみんな怖いんだわ。
年をとって愚痴っぽいおばあちゃんになって、躰のあちこちが痛くなって、不幸な気持ちで死んでいくのも怖いけれど、ほんとうに怖いのは、たぶん、自由になることなんだ。
見えない鎖につながれて、不幸を相手のせいにして、幸せになるチャンスをみすみす逃してしまう。
結婚したって年をとったって、魂は自由なままのはずなのに。
本当はいつだって飛び立っていけるはずなのに。

そう、わたしは自由をおそれはしない。
神様、幸せになる権利は誰にだってあるはずでしょう?
ねえ、せめてあと一週間だけでも、このままの気持ちでいさせてください。


この記事がいいなと思っていただけたら、サポートをお願い致します。 いただいたサポート費はクリエーターとしての活動費に使わせていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします!