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Freedom - 自由をこの手に -

まず、心が反応した「親ガチャ」のニュースのご紹介。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6405350

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一理ある。
ただ親を選んで生まれてくるという説も。沢山の逸話を知っているので、それを乗り越える運命を選択して生まれたのではとも考えている。
その気概も必要かなと思う。

まぁでも親子のこれ、いつまでやるの?
何世代もずっと同じことしてるよね。
次世代のための社会作りを順々にしようよ。
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↑ SNSへのコメント掲載内容
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このニュースに反応した理由は、告白すると俺は、奴隷チルドレンだった。
だから、親についてや、虐待についての話題などには反応してしまう。
俺は子供時代、軟禁状態で暴力もある中で働き続けた。
学校へは行けた。その時間だけが、自由と言えた。勉強は、授業以外の時間ではほとんどしたことがない。毎日疲れ切っていて、眠りたいからだ。当然、周りの子とは違い塾などへは行かせてくれなかった。部活などをするくらいなら仕事をしろと言われていた。仕事はそれなりに大きくやっていて、細みの俺は周囲から見ると裕福な家の運動しない子供に見えたらしい。遊んで運動して疲れるなんて、仕事が待っている俺には無駄なこととしか思えなかった。

姉がいるのだが、実家で顔を合わせたのは何年ぶりだっただろうか。30代になり彼氏を連れて来た時、父の前で姉はこう言った。
「2人でマンションを買ったから、一緒に暮らす。でも、入籍結婚はしない。子供は、絶対に作らない。可哀想だから。」
その後、実家には一度も帰っていない。遺伝子レベルで父を拒否したのか、女性にしかわからない感性なのか、シンプルに父への抗議なのか、その後どうしているのかも分からない。
姉は、俺とは違い実家を出ることが前提だからという理由で、勉強をさせられた。仕事の分担は、家事全般だ。姉が小学生高学年になった頃には、ご飯がとても美味しいというほど、料理が出来ていた。彼女は、小学生になってからずっと家事をしていた。
父の指示通りの成績でないと殴られたりしていた。家事が疎かでも、、、
そんな彼女は、大学を卒業してから男どもを蹴散らすほど仕事で能力を発揮し、あっという間に数十人の部下を抱え世界中を飛び回るほどのバリキャリになったw

そんな親の元に生まれた子供たちだった。それでも親なわけだから、俺はたまに帰っていた。実家から子供たちが居なくなって、父も少し変わった。以前とは違い、家に顔を出すと嬉しそうだったから。
俺は、自分なりに乗り越えようとしていた。何しろ小学校高学年の頃には、いつかコ□そうと誓ったほど憎んでいたのだから、赦す心境というのは劇的な変化だった。

それなのに、会えば父の独壇場が始まる。この人は、いつまで気付かないのか。決まって自分の幼少期は、もっともっと大変だったと言う。だからこそ子供は自由に育てようと考えないものなのか。
今となっては、父への感情も憎しみはなく哀しみに近い。

暴力を受けていたと書いたけれど、実はその記憶はない。周囲も父も認める事実なのだが、記憶にないのである。きっと、脳が消し去っているのだろう。
姉が殴られている壮絶なシーンは、はっきりと思い出せるのに、自分のことは思い出せない。一度だけ、姉が殴られながら、助けを求めるように俺を見つめたことがある。だけど、姉よりも4つ年下の幼稚園児には何も出来なかった。それ以来、姉はずっと俺に冷たいままだった。今でも後悔の念と共に忘れられない。
その記憶の中の子供の姉を助けて抱き締めたくなる。でも、姉にはその気持ちは届かない。

ともかく、激烈な子供時代を過ごした。
そして、実家から逃げ出すように離れ、苛烈な自由を求めた大人時代を歩む。
だけど、損ばかりではない。ある意味、今の丈夫な身体、逆境に強い精神力は、子供時代に出来たものだ。社会に出てからの出来事は、どこか甘々な別な世界のように見えた。これほど自由な世界なのに、ストレスを抱える人々を不思議にさえ思っていた。そんな人々を他所に、堂々と胸を張って仕事をして、自分的には楽々と最初のキャリアを得た。正直、周りの人間全てが弱々しく見えた。少し推せば前の出来事が吹き飛び、自分の提案が通る。そんな感じだった。実際、今よりはまだまだ景気が良かったせいか、2社ほど上場企業でも働かせて貰ったが、1〜2ヶ月もしたら役員クラスの方から声をかけられるほど勢いがあった。半年もしたら管理職になる程だった。それらは、実家での苦痛に比べて実に容易いと思えるレベルだったからだ。しかし、実際の勤務は、朝7〜8時に出社し帰りは終電近かった。それでも俺には楽な仕事だった。それでも、なんて自由なんだと思っていたのだから、どれだけ子供時代が辛かったのだろうか。そんな風だったから、20代の半ばを折り返した頃には、年収もそこそこあった。車も当時若者には買えないようなものを乗り、ガソリンや生活費を気にしたこともなかった。
完全に社会を舐めきっていた。そして自分の力で、のし上がってやろうと攻めるように生きた。それは、幼稚な間違った考え方だと後に知ることになる。その考え方は、子供時代に精神的な成熟がなく、そのまま社会に出て、まるで反動のようだったと思う。いつか勢いは変わっていく、栄枯盛衰である。

どこまで行ったかは、あえて書かないようにするが、なかなか良い線までは行っていたと思う。しかし、それまで自分の力だけだと思っていたことが、実はそれだけではなかったと知る。更に、油断や隙が生まれ、転落してゆく。

そして、全てが崩れ去ったあと、精神と人間的な成長の転機が訪れる。今では、子供の頃の自分を抱き締め愛せるようになった。
様々な出会いがそうさせたのだけど、真のトリガーは、最愛の女性だ。
彼女に出会い、まず初めに大人になってからのトラウマを思い出に変えることが出来た。すると、それから時間をかけて少しづつ過去へ遡って行った。3年ほどかかったが、もうすっかり過去は思い出となった。

ずっと、自由を求めて生きてきた。
しかし、自由には常に自己責任が付き纏う。
振り返れば、危険も苦労も多かった。

そんな人生の中で、自己の性格が変わってしまうほど、インナーチャイルドを愛せるようになった。子供時代の自分を「もう大丈夫だよ。」と涙を流しながら抱き締められるようになった。
昔の俺を知る人は「本当に同一人物ですか?」と、俺に向かって言ってしまうほど性格が変わった。

そして今こういう話題を目にすると、どうしても子供時代を思い出し反応してしまう。こういう子供たちの話題は泣けてしまう。

「親ガチャ」確かにと思う。反面、乗り越える気概を持とう。と思ったりする。
俺は、ある程度は乗り越え克服したと思う。変わらない親を責めても仕方ないと思えるほど。
だけど、そう出来た俺は、幸運なのだと思う。

罪のない虐げられる子供たちの辛さに胸が痛む。
これを無くすためには、人間はもっと精神的に成長する必要がある。
そして、社会を変える必要がある。

天皇家で126代らしいが、その間改善されず、続いている因縁と言えよう。
人間が、そんなことをしてしまうような社会をいつまで続けるのか。
問題なのは、人間が作る今の社会システムなのではないだろうか。

この世界が人間の限界だとしたら、なんと愚かでお粗末な生き物だろうか。

しかし、たくさんの人が気付いている。
それは、俗にいう支配者が最も恐れる人々である。

もう変えよう。
この世界が、お粗末で低俗な社会だと認めること。
そして、愛と自由を理解した社会へと変えよう。

自分には何が出来るだろうか。
そう考えて、次世代の未来のための活動を始めています。

誰得?な自分のこと満載ですいません(^^;;
少し纏まりが悪く乱文ですがご容赦ください。