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愛したい世界


それぞれがそれぞれの言葉で、その人が信じる真理を語っている。

わたしは、スポンジのような人間なので、いろんなものに反応しながら生きてきた。

よく言えば純粋、悪く言えば自分がないとでもいうのだろうか。

ただそれさえも、自分のいいと思うものに反応してきたのだから、特に問題はないのかもしれない。

それが、たとえネガティブと呼ばれるものであったとしても。

noteを始めてからは、多くの人が集まって惹かれているものほど、注意深く観察するようになった。

みんながいいと言っているから、ポジティブなエネルギーを発しているから、キラキラしているから、わかりやすい愛と思いやりに溢れているから、そんな理由で、自分にとってもいいものだとは決めつけたくなかった。

わたしは今、ネガティブを愛している自分がいることを実感している。

その実感は、わたし自身にとって、とても清々しい心地よさを運んできてくれた気がする。

ここ最近、長い間見て見ぬふりしてきた、恐怖や悲しみと向き合い、身体がのたうちまわるほど泣き苦しんだら、心身がようやく落ち着き始めた。この一年で、これでもかっていうほど溜めこんだものを出したと思っていたけれど、まだまだわたしの魂(身体)は納得してはいなかった。

どん底で死にかけのぼろぼろの身体で、再会した整体師の先生と、この一年、二人三脚で、自分自身の中に閉じ込められてきたあらゆるものと向き合ってきた。

その中で、ネガティブをそのまま出すことの素直さを学んだ。

一体わたしはわたしの一部をどれだけ悪者扱いしてきたのだろう。

わたしは今、自分の中で、ネガティブという言葉から受け取るエネルギーを、変容させた。

ネガティブは出してはいけないものという設定から、ネガティブは愛(ありのまま)に変わった。

あんなに嫌で、感じることを拒絶し続けてきた“悲しみ”という感情の素晴らしさを、今全身全霊で味わっている。

悲しみも悦びになった。

そんな風に感じられるようになってきたここ数日、初めて人の温かさを芯から感じられるようになってきた気がする。

わたしにとって心地いい距離感とか、文章から感じられるまなざしとか、わたしはこういうのが好きなんだって、少しずつ見えてきた。

今までは、自分が本当に望んでいるものがわからないから欲張りだった。

でも欲張ったから、手放すことを知れた。

いっぱい欲しがって、体験したから、いるものといらないものが少しずつわかるようになってきた。

これからも、その繰り返しで、生きていくだろう。

知らない世界はまだ山ほどある。

だから、古くなってもういいかなって思えるものは手放して、また新しく魅力を感じるものに手を伸ばしてみる。

そうやって、わたしにいろんな体験、させてあげようって思う。

逆に、やりたくなくて、毛嫌いして、人に押し付けてきたものも、少しずつ、やっていこうかな。

世の中には、死ぬまでに網羅できないほどの、未知がある。人がいる。人生がある。

noteでの出逢いは、わたしの人生をとても豊かにしてくれている。

裸になるために始めたこのnote、読んでくれる人がいたから、心も癒された。

温かいコメントに、救われる。

調子が悪くても、そっと見守ってくれる人たちがいる。

だから、こうして言葉を綴ることができている。

やっぱりひとりより、誰かと関われる人生がいい。

たとえ、途中で躓いたり傷ついたり傷つけたりしても、すべてがかけがえのない経験。

むしろ傷があっていいのだと思う。

それが、自分を、そしてあなたを知る悦びになるから。

傷だらけになればなるほど、その身体は、やさしさで包まれるようになっている。生きている悦びを教えてくれるのは自然の偉大さであり、人の温かさだ。

だから、傷つくことを恐れても、恐れなくても、逃げても、飛び込んでも、ぜんぶ大丈夫。

人生はバランスで出来ている。

成るようになっている。

喜怒哀楽、すべてが愛しい。

だから、自分も世界も信じていい。








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