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盛田さんの「けんすい」

最近やっと「短歌の原稿」が終わって、いろいろ「覚えている記事」を読み返したり引用したりという作業も終わりです…。

「note」とは違う「雑誌向けの原稿」で、「字数も気にせず書いていい」というありがたいご依頼…。ご依頼してくださった方には、「印刷代かなりかかるかも…」と、恐縮することしきりです…。

依頼の原稿だからきっちり間違いがないように「見直し」もしたけど、多分分量も多いからまだ間違いがあるかな、とも思います。

いずれ「読める人には読める形」で発表されると思うので、お待ちいただければ。

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結構「いい原稿」書いたなという印象があるけど、読者の方に読んでいただかないと正直わからないのが怖いところ。

それにさきだって、「ほんとちっちゃな記事でいいから未来に貢献したい」と、未来に投稿させていただいた小文もあるのですが、見事、9月号の「Courtyard」欄に掲載となりました。やったー!

「起業家左千夫」という内容です。

すこし「牛飼の歌」について調べた内容なのですが、今日は「記事を書いたよ」というお知らせがメインではないです――。

牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

という歌の引用についての後日談です!

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実は左千夫の文章、原稿が完成した段階で、元の歌を探そうと「あれ、左千夫歌集どこ言った?」と思って本棚をがさごそ探していたのですが見つからず…。

「さすがに近代短歌を原典なしで引用するのは怖い」と思って、「短歌全集を持ってそうなお二人の知人」に「左千夫歌集」の該当部分のみを、「パシャっ」と写真をとって送ってもらったのですが…。

なんと、お二人が持っていた全集がそれぞれ異なる出版社からのもので、「全集ごとにルビが違う!」という事象に遭遇しました。

私が見せていただいたのは、

「現代短歌全集」(筑摩書房)と、「日本詩人全集」(新潮社)です。

「現代短歌全集」4(筑摩書房)では、

牛飼(うしかひ)が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる

と、牛飼(うしかひ)にだけルビ。

わたしもなんとなくこっちだと思っていたのですが…。

「日本詩人全集」5(新潮社)昭和43年の版を持っていた方の原稿を見て驚愕しました。

牛飼が歌よむ時に世のなかの新(あらた )しき歌大いにおこる

と、なんと「あらた」と、「新(あたら)しき」ではないとわざわざルビが振ってあるのです!

そういえばネットなどで検索すると、新しきを「あらたしき」と読んでいる人がいて、なんでこういう読み方をしているんだろうと思っていました。
きちんとそういうふうに書いているバージョンがあるんだなあ…。

「引用」の場合、「原典を正確に」って不文律がありますが、少し難しいのが「原典が出版社ごとに違う場合」です。

ここからは国文学でいう「校異」というか、「左千夫はどう考えていたのか」を追求していく、海外でいう「書誌学(ビブリオグラフィー)の範囲に入ってしまうので、専門の知識を持っていないと深くは追求できないのですが、書写された原稿が印刷されるまでの成立過程って、結構調査するのは大変なことなんです。

これ「正しい」のはどっち? 

と悩みました。

「そういえば加藤さんどうしてるんだろう」と思って『うたびとの日々』をもう一度読み直したら、加藤治郎さんは「牛飼にのみルビ」の「現代短歌全集」版を採用されておられました。

えー、どっちだあ。と迷いましたが、この異同まで作者が検証していては、「投稿の小文なのに時間を使いすぎる。ここは信頼できる「未来」の校正部門に丸投げじゃ」と思って、その旨を明記して「両論併記」でお送りしました。

出た結果が未来の誌面です。ぜひご確認ください。

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そういえば、こういう経験って「歌をはじめたころにも経験したこと」があります。

短歌好きは「現代歌人の好きな歌」をツイッターに投稿したり、引用することが多いと思います。その時、「原典をみずに引用」すると間違いばかりで「お前うろ覚えで引用したろ」と怒られることがあります。

たしかに僕は「引用が苦手」です。

考えたり、意味を咀嚼したり、理解したり、という作業が9割くらいを占めるので、「文章を一字一句間違えずに引用する」とか逆に大変です。

文学部を大学院まで進級しなかった(できなかった?)おおきな理由も、この「調査の作業」のほうが大学の研究者はメインで、江藤淳さんがどこかで言っていたように「研究者ほど勤勉じゃない」と痛感したのも理由の一つでした。

ほんと「引用の作業」って大変なのに、「完璧にやって当たり前」なので、物書きとしては嫌になっちゃいます!

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ところで、ぼくは、ずっと短歌を始めた理由になる歌人のひとりに盛田志保子さんの名前をあげて来ました。

かつて「歌葉」というレーベルで、『木曜日』という歌集を買って、そのみずみずしさと、「若い人ならだれでも経験する「雑」な感じ」にとても惹かれたんですよね。「わかる、わかる、この勢い。すっごいわかるわー」と思って、何度も何度も読み返しました。

現代では書肆侃侃房から、「現代短歌クラシックス」として刊行されているのでぜひ読んでほしいです。


今回、原稿書くために読見返したのだけど、「これはいいわ」という歌がたくさん。いまの僕の目でいくつか鑑賞を挙げておきますね。

おおよその配合で作る真夜中のお菓子ほど美しいものはない

盛田志保子『木曜日』

若い時って、なんというか、人としていちばん「雑に生きることができる」時期な気がします。「おおよその配合」で「真夜中」に「お菓子」作りできるなんて、ほんとわらっちゃうくらい「雑」ですよね。それこそが、若さであると言い、「美しい」と感じる。

わかる。これ、この作者の感覚にめっちゃ共感です。しかもこの歌、「妹にキック」という表題の連作に収録されており、盛田さんに妹さんがいるのか、ま、まさか、盛田さんが妹さんにキックをお見舞いしたのか、めっちゃ気になる。(深く詮索いたしません!)

でも、この表題も含めてすごい「クール!」だとおもいます!

世の中でいちばんかなしいおばけだといってあげるよまるかった月

盛田志保子『木曜日』


これもわかりやすいけど、「よく言えたなー」という歌。意味は取りやすいから特に余計な鑑賞はいらないと思うけど、月を「おばけ」だといった発想もすごいし、「まるかった月」みたいに思ったことをそのままぽんと入れ込める大胆さもすごい。ひとつの絵本みたいな歌だな、と思いました。

                ※

ちょっと別の角度から。

この歌集には「盛田さんらしい」という魅力的な歌も、たくさんつまっています。

ミキサーにぶち込んで待つ最上級ミックスジュースできあがるまで

さよならは練習次第ラケットをぶんぶん振って走るよみんな

盛田志保子『木曜日』

たぶん盛田さんの歌の根底には、あの若い頃の「ぶち込んで」とか「ぶんぶん振って走る」とか、ほんとはあまりよろしくない(と言われている)けど男女共通でつかっちゃう「乱暴な感情をあらわすことば」があるんだと思います。ほんとに殴ったりはしないけど、たまに男子が女子をからかうと「ぶっ殺すよ」とか言われる、あの感じ。

「うたう」受賞作だった「風の庭」には、この「ぶんぶん振り回す」みたいな「乱暴なことばを言いたい気持ち」が、作者の呼吸と完璧に一致した凄い歌があります。

これは、ぼくではなく、穂村弘さんが「改題」で最初にとった歌。

夜の川つかめばぐんとのたうちて蛇のごとくに姿を消しぬ

あっちゃんはどこにもいないということがきらきら羽虫のごとく来たれり

盛田志保子『木曜日』

まさにこれこそが、「改題」で穂村弘さんが「腹の底からでてきた」と評言した凄みにつながると思う。(これはぜひ穂村さんの「改題」を読んでほしいです)

もちろん、『木曜日』のすごいところはこれだけではないです!

若い頃の「ぶちまけるよ」みたいな雑な感じから出た「凄みのある歌」。さらに、ほんとに「見立てが素晴らしい歌」もたくさんあって、すっごいバラエティがある。このひとりの作者から、いろんなバラエティのある歌を作れるというのも、とても凄いと思ってぼくは感心したのです。

                 ※

次の歌は盛田さんの代表歌というか、「見立てのすごい秀歌」みたいな歌だけど、こういう歌を読んで、「びびる」というか「これは勝てん」と思った。

すべり台のすべるほうから駆け上るだん、だん、という音だけ 春夜

息とめてとても静かに引き上げるクリップの山からクリップの死

盛田志保子 『木曜日』

簡単に「短歌で現実を写す」なんて言うけど、盛田さんのこの歌たちほど見事に「短歌に最適なサイズで現実世界を切り取った」歌は、いまに至るまで見たことないかもしれないです。

1首目は、最初すべり台の歌かなと思うんだけど、注意してほしいです。これは、「すべり台を駆け上がる音」の歌です。春の夜、ひとりで公園にいてふと滑り台を逆から駆け上がってみると、あの金属でできたすべり台のすべるほうの「だん、だん」という音だけが響く。

感じるのは春の暖かさ。そしてすべり台を「逆からのぼる」音。

その音の大きさとともに、ふいにひとりで春の夜、公園にいて感じる作者のさびしさ。そういうものも遠くからぼんやり聞こえてくる。とんでもない量の様々な感情が、省略、というかぎゅーっと圧縮された歌なのです!

                ※

2首目。クリップの死。これは「なんだろう」と思うんだけど、クリップはいつ死を迎えるのか、ということをかんがえたことがなければ、この歌をよむことで作者と一緒に考えられるので、とてもしあわせです。

クリップがクリップとして成立している(生きている)のは、「クリップの山の中にある」ときだ、という作者の強い断定が、まず読後すぐに読み取れる。

そこからおごそかな感じで「息とめてとても静かに」クリップを引き上げる様子から、作者がすごい大事なことをしようとしているのもわかる。

それが「クリップの死」というぎょっとする断定につながるのです。

そこにあるのは、クリップを引き上げているのか、クリップの「死」を引き上げているのか、すごい微妙な認識と感情の「揺れ」だと思います。クリップの山から引き上げた瞬間、クリップは死ぬ。だから作者が引き上げたのは、クリップでもあるし、さっきまでそこにあったクリップではない「死んだ」クリップだったりする。

こういうもやもやっとした感情の「揺れ」を全部省略して、「クリップの死」というひとことに圧縮してしまったのはほんとに凄い。しかもそれが現実の死と同じように、「息とめてとても静かに」することが、何か厳粛な儀式の前触れのように描かれているのもすごいと思う。

これは勝てない。そんな印象を抱きました。

一瞬、作者が頭のなかに去来したいろいろな感情を「まさにこういうふうに短歌にできるんだ」ということを、盛田さんは証明した。

それに完璧に度肝を抜かれたのが、短歌をはじめたときの僕…ということになります…。

             ※

今回の文章では、現在まであんまり語られることのない盛田志保子さんや雪舟えまさんの歌も、このnoteとは違う角度で整理して書いたので、ぜひお読みいただきたいです。

そんなぼくが一番好きな盛田さんの歌は、ほんとにあまりにも省略しすぎて感情が抽象化されてしまった、「ななめ懸垂」のうたなのだけど…。

春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花

盛田志保子『木曜日』

ぼくはあまりにすごいので、この盛田さんの歌をまるごと覚えてしまったような錯覚があって、以前ブログに「ななめけんすい」って書いて出したら、
どなたかは覚えていないけど、

「西巻さん、『ななめけんすい』じゃなくて『ななめ懸垂』ですよ」

と注意されてしまいました。

「えっ、けんすいの部分漢字? すっごい意味合い変わるんだけど…」

と勝手にしょぼんとして歌集を開いてみたら、歌集には「ななめ懸垂」ってたしかに書いてある。

そこで「うわー。イメージ違うなあ」と思いながらしぶしぶ「ななめ懸垂」に戻した記憶があります。「あれー。けんすいで覚えたの記憶違いかなあ」と思って、十数年、ひらがなの「けんすい」の表記は胸にしまっておりました。

今回あらためて盛田さんの本を読んでみたら、

なんと「ななめけんすい」と表記してある(つまりひらがなで表記してある)本もあったのです!

               ※

それが森田さんのもう一冊の著書、

『五月金曜日』です。

エッセイと盛田さんの歌が交互に織り交ぜられた一冊で、盛田さんの感性がほんとにみずみずしいんだということをまざまざと知る名著ではあるんだけど、残念ながら絶版。

ぼくはこの盛田さんのエッセイも好きで、「エッセイなら盛田さん」というイメージをまだ持ってます。「ぼくは盛田さん以外の人のエッセイを読みたくない」と思うくらい盛田さんのエッセイは他の歌人が書くエッセイより飛び抜けていました。

その最後のほうに『木曜日』のなかから再構成された形で歌が再録されているのだけど、そこにはっきり「ななめけんすい」って書いてあるんです。

「あ、このセレクションのほうを覚えていたから「ななめけんすい」って表記していたのか!」

と私は自分の見た記憶を「間違ってない」と確信したのでした。

おそらくみんな歌集に準拠するのが筋でしょうから、公的な表記は歌集の「ななめ懸垂」になるんだけど、ぼくは盛田さんの歌は「ななめけんすい」だとずっといい続けるかもしれないです。

               ※

盛田さん、ぼくが死ぬまでに「これどっちなのか」はっきりさせておいたほうがいいと思う。(いや、はっきりさせないほうがいいか。はっきり漢字と決まったら、日本で何人いるかわからない盛田フリークの僕が泣いてしまいます)。

あと、僕は自分が死ぬ前に、最後まで『五月金曜日』のエッセイをゆっくりゆっくり味わってから死にたいです。これはほんと絶品だから。死刑になるときの最後の望みみたいな感じで怖いけど…。

あと、誰ですか? 

「エッセイは誰でも書ける」みたいなことを言って、歌の埋め草(隙間にいれる)原稿だと思っている人は。

エッセイは独自のジャンルなので、短歌雑誌はぜひ「とびきり上手なエッセイを書ける人にいつも依頼してほしい」と思います!!


追伸(ついしん)


なんとこの記事で取り上げた短歌の一つ、

すべり台のすべるほうから駆け上るだん、だん、という音だけ 春夜

「木曜日」盛田志保子

に、一時空けがあったのではないか、というご指摘を中本速さんからいただき、慌てて確認したら、「音だけ」と「春夜」の間に、確かに一時空け、ありました!!

(中本さん、ご指摘ありがとうございます!)

まさか「引用の難しさ」を語る回で、自分で微妙に引用ミスをしていたなんて!?

実はほんとに私、引用が苦手なため、(ミスらない自信がないので)、最近は手入力ではなく、スマホカメラによる文字認識で必ず入力しています。(長文になればなるほど入力しなくていいので「楽」なのですが)

やり方は以前紹介しました! こちら↓

それでも軽微なミスとか、まだまだあるようで怖いです! たまにスマホでやっても文字が被ったり、空白を読み込まなかったりします!

特にネットの文章は「文責 私」なので、引き続きミスないように気をつけたいと思います!

※あとすこし気になる文章の雑さも修正し、9月16日確定稿としました。

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