手嶌葵を考える
一般的な音楽ファンやマニアを自称する人たちからは彼女の名前は眼中にないのかもしれない。
手嶌葵
その名前はスタジオジブリの「ゲド戦記」の主題歌「テル―の歌」に抜擢された歌手、くらいなものかもしれない。
たまにテレビに出たり、ブルーノートみたいなライブハウスに出演する。定期的にアルバムも出すし、今井美樹とコラボもしている。
ではあるが、彼女はそれほど人前にでることを得意としてはいない感がある。平原綾香のように優等生面して権力者や権威に擦り寄り、自分の地盤を固めたりはしない。歌を歌って細々と暮らしている感がある。もちろん僕の勝手な解釈でしかないけれど(笑)
夕闇迫る雲の上いつも一羽で飛んでいる
鷹はきっと悲しかろう
音も途絶えた風の中
空を掴んだその翼
休めることはできなくて
心を何にたとえよう
鷹のようなこの心
心を何にたとえよう
空を舞うよな悲しさを
これは「ゲド戦記」の主題歌「テル―の歌」の一番目の歌詞。僕はこの歌を街の雑踏の中で耳にしてその場から動けなくなってしまったことを覚えている。
何にもたとえることなどできない荒涼とした自分の心のありようを目の前に突き出された気がした。いや、非難めいた口調ではなく、むしろ諭すような声で歌う「手嶌葵」の存在を知った。
彼女の声の質感はむしろアカペラでこそ生きる。
彼女のウィスパーヴォイスをマネする輩はいるかもしれないが、地を這う者たちへの慈愛と高く虚空に飛ぶ者の哀しみを理解した歌い手はそうはいない。
「ゲド戦記」のようなメッセージを受けるような作品に彼女の歌声は強すぎず、弱すぎず、むしろ澄んだビジョンのようなものを受け取る。
その後に「コクリコ坂から」の主題歌「さよならの夏」や挿入歌「初恋の頃」などのジブリもの(谷山浩子の曲のファニーさといったら!)から、「瑠璃色の地球」などのカバー曲、「ただいま」「明日への手紙」などのオリジナル曲まで歌のレパートリーも豊富である。もう15年近いキャリアを持つベテランなのである。大人たちが歌わせたくてたまらない歌がたくさんあるのだろう。
しかし、時代としてはウィスパーボイスには受難の時代かもしれない。
現代は無駄に声量を誇るような歌手が多い。「私は上手いのだ」という主張ばかりで歌が持つ世界観を表現できる歌手のなんと少ないことか。
だからジャズのスタンダードや映画音楽などのオファーが多いのかもしれない。音域やリズミックであるかないかなど制約もあるかもしれないが、言葉をのせる歌い方ができる歌手はそう多くはない。
僕からすると7色の声を持っていたところでそれがなんの役に立つのだろうと思う。それよりもその歌の世界をどう表現するかに拘った彼女の歌の方が僕にはしっくりくる。
しかし、好きな歌手を訊かれて、彼女の名前を出すことはとても気恥ずかしいことだ。それは、好きな女優を訊かれて志田未来を挙げることくらい恥ずかしいことなのかもしれない(笑)
それだけロックやジャズを聞いてきた「ある程度の耳」を持つ正統な音楽ファンからは特にどうでもいい存在なのだろうな。ただ、「正当な評価」というものはどういうものなのかということを考えれば、彼らの「聞かずぎらい」というものもあるとは思う。
誤解を恐れずに言えば、マライヤ・キャリーよりもカレン・カーペンターのほうが僕は落ち着くし、7オクターブを行ったり来たりすることよりも、雨の日の憂鬱や愛を失ったことの哀しみや、虹が続いていく美しさに自らの願いを希求するような歌に心を動かされる。それはカレン・カーペンターを通して僕たちも感じる「感情」に揺さぶられるからだ。
僕は声域7オクターブという超人性には心を揺さぶられない人間なのだ(笑)
それと日本人はカテゴライズが好きなので、手嶌葵が聞く者によってどういうジャンルに入るかにもよるだろう。ジャズシンガーなのか、ポップスの歌手なのか、映画音楽の歌手に入るのか、ジャンルという壁もある。そのどれかと言われるとそのどれでもない地位を築いていると言ってもいい。ちなみに作曲家でも作詞家でもない。
あれこれやっていると「ミュージックフェア」からお声がかかりそうなものだが、そういう営業もやっていないみたい。
というか、聞く聴衆を選んでいるのかな。
僕は、勝手な妄想であるが、彼女に「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を歌ってほしい。
古今東西、色々な歌手が歌っているが、退廃的な空気を醸す人もいれば、同性愛的な物語性で歌う人もいる。彼女なら少女の道ならぬ恋というストーリーを与えたらとても良い歌になると思う。
もう僕の妄想でしか話が続かなくなったので、この辺りで失礼!
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