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ままならなさによって空いた穴を埋めてもらうことを、逃避とは呼びたくない。【宇佐見りん『推し、燃ゆ』】

推しという存在は、代り映えしない日常にちょっとした潤いを与えてくれる。
SNSの更新に飛びつき、情報解禁に沸き、写真や動画に癒されて、インタビューに心奪われる。「今日も生きていてくれてありがとう」とわけのわからない満たされた気持ちになり、スマホを閉じて現実へ立ち向かう。
私はわりと簡単に推しが増えるタイプなので、そのときそのときで熱を上げる対象は変わってきたのだけれど、でももう長いこと、私はそうやって生きている気がする。

いや、「ちょっとした潤い」なんて気軽なトーンで言ってみたものの、それがあるのとないのとでは、大違いなのである。
あまりにも自然にやっていることだから特段意識していなかったけれど、その潤いがなかったらいったい私は何をつっかえ棒にして、どんな顔をして生活するのだろう。

宇佐見りん著『推し、燃ゆ』の主人公あかりは、アイドル上野真幸を推している女子高生。勉強もバイトもうまくいかない、家族とも学校ともうまくやれない。そんな、何かがずっとズレているような慢性的なしんどさのなかで、推しを解釈することに心血を注ぎ、ブログを運営し、推しが同じということで繋がった読者たちと交流する。

寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。
推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。

「推しが燃えた。」という一文から始まるこの物語は、炎上したアイドルのその後を追いながら、主人公のままならない生活を淡々と映し出す。
推しの動向が不穏になっていくのと並行して、あかりの状況も悪化していく。比例するように、よりストイックに推しを推すことに勤しむようになるあかりを見ていると、胸を掻きむしるような息苦しさに見舞われる。
「推しを推すための行為なのか、あるいは重さから逃れるための行為なのか」と言いたくなってくる。もはやそれは背中合わせであり、不可分なのだと気づかされる。

あかりは自身の「誰にもわかってもらえない」という気持ちを、推しがレポーターへ向けた「睨みつけるような眼」に重ね合わせる。
推しの作品を鑑賞し、曲を聴き、ラジオ出演のコメントやインタビューを身体に流し込み、その存在を自身に限りなく近づけて「推しもこういう気持ちなのかもしれない」と考えたりする。それが独りよがりであることは、きっとじゅうぶんに理解した上で。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。

推しを理解したいと願い、精一杯解釈して推しを自分に取り込んでいても、だからといって推しに自分のことを受け入れて欲しいわけじゃない、という文脈のなかで出てくるあかりの見解だ。
このあとに続く一連の文章は、推しを遠くから見つめていたいタイプの人間が抱く、微妙な隙間感情の見事な解析だと思う。

本当のことなど、本人以外の誰にもわからない。
身近な人との日常のコミュニケーションでもその隔たりを感じるくらいだから、「一人対不特定多数」の推しと私たちの関係性ならなおのことだ。
その隔たりを「優しい」と表現する著者のニュートラルさに思わず目を見開く。日常にある「隔たり」くらいでは、自分を守ることができないあかりの苦しさを想う。

逃避でも依存でもない、推しは私の背骨だ。

立ち上がるための、歩くための、闘うための。この世界でどうにかこうにか生きていくための支柱。「背骨」というこの表現に膝を打った。

日々の生活のなかで誰かを推していると、これは逃避なのかな、と思うことがこれまで何度もあった。
現実の嫌なこと、考えたくないことから目を逸らして、心地良い場所に逃げ込んでいるだけなんじゃないか。そんなの、よくないことなんじゃないか。もっと強くならなきゃいけない。克服しなくちゃいけない。
そんな気持ちが、推しを推すことに罪悪感を抱かせた。

でも『推し、燃ゆ』を読んでいて、あかりを見ていてハッとした。
推しを推すということはそんな、いざというときのシェルターみたいなものではなく、ご都合主義の夢みたいなものでもなく、もっと身近なものだった。もっと生活で、もっと人生で、もっと私自身だった。

「命にかかわる」と断言していた推しが炎上したあとの、あかりの喪失と再生。その「これから」を、私も一緒に生きていくような気がした。


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子供の就寝後にリビングで書くことの多い私ですが、本当はカフェなんかに籠って美味しいコーヒーを飲みながら執筆したいのです。いただいたサポートは、そんなときのカフェ代にさせていただきます。粛々と書く…!