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「そっか」と言いたい

大して何もできないまま、
今年の半分を越してしまいました。
まあそりゃさ、平坦な日々だったわけではないのだけれど、振り返ったときにピックアップできるものが春以降思い出せない。
カタカナ3文字に埋れてしまった私の初夏、だいすきな初夏…
5月、青葉の並木の下を走る自転車、だいすきだったのにな。

ここ2ヶ月の間、読書、映画、あつ森の3つのループを繰り返してた。たしかに勉強もしてたけど、明らかに「頑張って」ない自分に罪悪感通り越して嫌悪感。でも内側へと根を詰めていくような没頭はこの状況ではあまり好ましくない気がして、なんとかなるさの精神であえて穏やかな時間を過ごしている。
(言い訳だけどね)

ぽろっと口からこぼれ出てしまったかのように、「そっか」と言える人になりたいと、最近思っている。
味気や愛想のない「そっか」ではない。
腑に落ちて納得したときに滑り落ちるかの如く出る「そっか」のことだ。

一時期同じニュアンスで、使えるようになりたいと考えていた言葉があったな…

思い出した、「できません」だ。

もう少し説明すると、言えるようになりたいのは、自分の意見に対して他の人が全く違うコメントを出したときの「そっか…!」、何かを教えてもらったときの「そっかあ〜」、明日までにこの仕事やってくれる?に対する「できません…!」のこと。

全く言えないというわけでもない。
けれど「言える」自分を演じている時があることを認めましょう。素直さを演じる私がいること、はい、認めましょう。認めます。

この「言える」「言えない」は一体なんなのか?
最初はプライドの高さの問題だと思っていた。素直に相手の意見を尊重したり、自分の無知や非力を認めたりすることが嫌、だからもごもごしてしまうのだと思っていた。

それ自体はなきにしもあらず、だけどきっと本質ではないなとちょっと気がついた。

なんとか培ってきた「自分の価値」を、その一言で失ってしまうようで怖い。その言葉で全て、ここまでの努力も評価も学びも何もかもが音も立てずに崩れてしまうようで怖い。私の持ってるもの、全部大して意味のないもののように思えて怖い。そんな気持ちが正体なんじゃないかな。

大袈裟に言っているだけで結局プライド高いってことと意味変わんないんじゃないの、と私の中のリトルLucyが言う(古い)。
でも負けたくないとか悔しいとか勝気なニュアンスを持つ言葉で表すと少し噛み合わない。
きっと、私の心の根底にある「自分に対する自信のなさ」に由来した気持ちなんだろう。
私、自己肯定感は低くない方だと思うが、手持ちの自信の荷重はそこそこ軽い。ポシェットに入るくらい。

自信と自己肯定感。これは似ているようにみえてイコールでは結べないと思っている。あくまで私の場合においてだけれど、自己肯定感は幼いうちに親が育ててくれたもの。自信は自分で積み上げてきたもの。
塗装工程のように何層にも丁寧に重ねられて、頑丈な地盤がある自己肯定感が致命傷を負うことは少ない。でも折れつつ補強しつつでやってきたマイ自信ちゃんは、不意に飛んできたパンチで呆気なくダウンすることも割りかしあるのだ。

元々の自信が弱々しいので、自分自身の不十分さを目の前にすると、途端に守りの姿勢に入ってしまう。一歩引いたところから見れば、知らないことを受け入れて昇華できる性格の方がよっぽど良いとわかる。
でも、怖いんだもん。「知らなかった」「できなかった」そう言った後でも、あなた私のこと変わらず好きでいてくれる?がっかりしない??ねえ、私ここにいてもいい???

0.0001秒くらいの間にそんな不穏な翳りが差すから言えないんだよ、「そっか」。
大層な物言いでつらつら書きましたけれど、そういうことなんですきっと。

じゃあどうしたらいいか、そんなの全然わからないんだけど、きちんと自分を許す作業が必要だと思っている。悪いことしたわけではないのに自分を責めてしまう私を、許して許して許す作業なんだと思う。
めちゃくちゃ甘ちゃんなことを言っていますが、チャレンジだらけの毎日でサバイバルして生きているだけで人はみんな偉いのだから、そこにプラスアルファを生もうとしている自分をもっと認めてあげなくちゃいけない。
そういうコツコツが、脳みそで思いをこねくり回さなくても口からこぼれ出るピュアな「そっか」につながるのかな、他人も自分も今も過去も未来も全部に対していいものはいいと認められるようになるのかな。

大きな大きなひとりごと。
博愛主義のくせ、その枠の中に自分が入っていない、私の大きなひとりごと。




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