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爽籟と、暮れていく胸の裡と

秋が来てしまった。
窓から入る透明な風に撫でられながら眠る季節。
この大切で大好きな時期な訪れを感じたら最後、1年の終わりに心が引っ張られ始める。

閉じていくにはあまりにも早いのだけれど、2022を振り返ってしまう。私にとって、2020と2021は怒涛の進化を感じる年だった。世の中の停滞感をよそに、人生のスピードはぐんぐん加速し、思いもよらない出会いを引き寄せた。いつかいつか、と考えていたことが、気がつくと実現しているような日々だった。それはとても刺激的だったし、変化の渦の中でハンドルを握ることに必死な日もあった。自身の人生なのに、気を抜くと振り落とされそうな瞬間瞬間に、驚きながらも夢中だった。苦手も好きもすべて、出会ってしまったのだから乗り越えてやるという気概で何とかやってきた、というのがあの2年間。

その山の先に、2022があった。
上手く表現できないが、他人の人生に巻き込まれていく濃密な時期があった。自分の意志で関わっているように見えて、私は時折自分を保てなくなっていたと思う。それが辛かったとか大変だったとか、そういうことではなく(間違いなく大変だったけれど)、どれだけ親しく付き合っている相手だとしても「とるべき距離感」というものがあるのだと学んだ。しなだれかかるように人を頼り、頼られるということは、たとえ望んでそうしていたとしてもやはり健康的とは言えない。時に必要となることもあるけれど、それは休憩地点のように存在するのがちょうどよく、結局人は自分の足でまっすぐ立つ瞬間を少しずつ目指していくべきなんだ、ということも感じた。助けあいを繰り返す中で思ったこと。

そして、自分の心をさらけ出す怖さと心地よさの両方がせめぎあう時間も大いにあった。内側を開放しては傷を受ける、という過去の経験から、生身の自分を人に話すことがとても苦手だった。心というのは複雑で、全く違うように見える想いも結局は表裏一体。「わたしを隠したい」と「わたしをわかってほしい」はいつも隣り合わせで、葛藤を続けるうちに飛び出すように自らを見せてしまった。受け止めてくれたその人は、私の思いを「見る・眺める」のではなく一緒に考えてくれる人だった。その優しさが心地よく、迂闊に他の面も見せてしまいそうになる。葛藤はゼロにはならないけれど、わかってもらえる可能性を信じる濃度は増したのだ。頑固に凝り固まった筋肉がほぐれていくように、私は少しやわらかくなったのかもしれない。


明るいだけの9か月ではなかったのはたしかだ。華やかとは遠く、屈折して拗ねた感情を抱く日々も多かった。ひねくれていく自分がすごくすごく嫌だったけれど、抽斗の数は間違いなく増えた。忘れようにも忘れられない記憶がたっぷりできてしまったのだから。

近く誕生日を迎える。そのあとで新しい年が始まる。新年を間際に控えて書くことばは、今とどれだけ違っているだろうか。ほとんど変わらないだろうか。枯れていくのに瑞々しく、気持ちよく晴れたこの季節のあとで、どんなあとがきを紡ぐのか。私はまだ少し恐ろしく、けれど希望も捨てきれないでいる。


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