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2024年上半期の本ベスト約10冊

はじめに

 旧Twitterを始めて以来、2021年2022年2023年と選ぶだけは選んできたのですが、今年は各々の作品について少し詳しく述べておきたくて記事を書くことにしました。
 それともう一つ、実用書や専門書など読まざるを得ないものが年々増えているので、趣味としての読書が何とか維持できている間に一度くらいはこうした記事を書いておきたかったという事情もあります。

 なお、フォローしている方々が挙げておられた作品はできる限り避けました。
 とはいえ、もともと「あまり他の人が読まないものを、できるだけ幅広く」という方針で選んでいるので、そもそも重なりにくいという話があり、ゆえに「作品に興味を持ってもらえるような書き方をしなければ!」と自分で勝手にハードルを上げてビビっているのでお手柔らかにお願いします。

 では前置きはこれくらいにして、本題に入ります。


島内景二『新訳建礼門院右京大夫集』(花鳥社)

 本作以下5冊ほどの顔ぶれを見れば、私が一時期(特に一月中旬頃)平安時代に生きていたことがバレてしまいますね。
 ただし、その中でも本作こそが、私にとっては上半期ベストの作品でした。

 もともと『建礼門院右京大夫集』については講談社学術文庫(糸賀きみ江 訳注)で読んでいたものの、それは通読と言うよりは拾い読みと言うべきもので、それでもそれなりに知った気になっていました。
 都で光り輝いていた平家の公達が、わずか数年のうちに海の藻屑となってしまうような激動の時代。そんな時代に生きざるを得なかった悲哀を理解できたと、作者の想いに寄り添うことができると思っていたのです。

 ところが、本書の特徴とも言うべき「とにかく情報量が多い訳文」=単なる逐語訳ではなく状況説明や時には未来の結末なども仄めかしながら文章技巧や引用元の詳細にまで言及した訳文と、訳文に入りきらなかった補足事項を読んだ上で、講談社学術文庫の原文・訳・註を確認しながら読み進めていくと、作者を襲ったかなしみを理解するなど、どだい無理な話だとしか言いようのない心境に陥ってしまいました。

 昨今『枕草子』は「敗者の文学だ」という捉え方が少しずつ広まっているように思います。
 中宮定子の栄華から失墜、つまり父の死から兄弟の流罪までがわずか1年、産褥による死亡に至るまでの期間でもわずか5年半で、中宮が産んだ第一皇子が皇位に就けなかったのも異例中の異例と言って良く、そうした苛酷な運命に対して抗うように、「そのような目に遭うはずのない素晴らしい御方だったのだ」と、華やかだった頃の記憶だけを書き残した側面が注目されているのでしょう。

 けれども、そんな清少納言の『枕草子』に対して唯一、不幸自慢で黙らせることができるのが『建礼門院右京大夫集』で、彼女が仕えた建礼門院平徳子は、自分が産んだ子(安徳天皇)を母(二位尼)が抱いて海に身を投げるのを見届けた後で、自らも入水したと言われており、しかし死に切れずに助けられ、ひっそりと余生を送ることになりました。
 我が国の歴史を振り返っても、ここまで悲惨な運命を背負った中宮は他に思い付きません。

 つまり『建礼門院右京大夫集』は『枕草子』と同様に「敗者の文学」という側面を持っていて、建礼門院や平家一門の華やかなりし頃を書き留めて後世に伝えています。
 とはいえ異なる点もあり、それは『集』という部分、つまり和歌の存在と、和歌を導く地の文=詞書きに顕著で、それらは『建礼門院右京大夫集』を無常の世を生きる物語へと、つまり『源氏物語』へと近付けています。

 平安・鎌倉という時代区分は後世から見たものですが、貴族の時代が終わりを迎えることを、当時を生きた右京大夫らは明確に感じ取っていたと思われます。
 枕と源氏という平安中期の二大作品をしっかりと吸収して受け継いで、時代の境目にそれらを後世に伝えるべく定められたかのように書き上げられた『建礼門院右京大夫集』は、一見しただけだと和歌も詞書きもありふれた平凡なものだと思ってしまいがちですが、実は文章も構成も巧みで読者の心に迫ってくるものがあり、それゆえに戦中・戦後に大事な人を喪った方々の間で広く読まれることになったのだなと、そんなことを思いました。

田辺聖子『新源氏物語』(新潮文庫)

 本作は「分かりやすく書いてある」という印象だったのですが、よくよく読んでみると「恐ろしいほど原文を読み込んでいる」ことが分かってきて、男女の機微をどこまで見通しているのかとおののくような心地がしました。

 例えば、大野晋, 丸谷才一『光る源氏の物語』(中公文庫)では「御髪もたげて見出だし給へり」を「六条御息所の愛執が深い」と指摘していて、それについて解説の瀬戸内寂聴は「女が起き上がれないほどの、濃厚な実事の経験ありということであろうか」(下 P.527)と語り手に水を向けつつ話を広げて(男の行為にも目を配って)います。

 あるいは橋本治『源氏供養』(中公文庫)では、光源氏には「近代青年につきものの『性的飢餓』というものが」ない、つまり十代初期に元服と同時に女性をあてがわれて「性的には満たされている」「けれどもしかし、切実に恋愛なるものを必要とするような飢餓状態には置かれていたりもする」(上 P.159-161)ことが指摘されています。

 これら二作品の中でも特に印象的な箇所を紹介して、では田辺訳はと言うと、上記の場面で六条御息所は「われとわが恋に、屈辱を感じて心を傷つけられた」(上 P.60)と解釈しています。その原因はシンプルに「光源氏と六条御息所の、お互いへの想いの深さや重さの違い」だと考えたくなりますが、後に野宮の別れの場面で、御息所が失ったと自覚したものの最後に「彼のあの男の動作」(上 P.297)がさりげなく加わっています。

 この辺りは説明が難しいのですが、おそらく田辺訳では、橋本治があえて分離して考えた飢餓状態を一体のものとして(つまり両者が分かちがたく存在していると)捉えた上で、「光源氏の(目の前にはいない女への)愛執が深い」という側面をも仄めかしているように思えましたし、それこそが原作者の意図に沿った解釈ではないかという感触が少なからず得られた感がありました。

 より率直に言うと、秘伝を優雅で艶美な熟練の業として身に着けていた彼女の性は、彼の若さと、彼が光源氏であるというただそれだけの理由によって屈服させられたのではないか、という感触がそれなりの手応えとともに伝わって来るようでした。

 その感触が部分的であれ正しいものであるならば、この場面は例えば若菜上で朧月夜と再会した際の「源氏は寝乱れた姿でそっと朝帰りした」(下 P.133)へと繋がっているのでしょうし、そうした今までは気付かなかった立体的な関連性に、そして原作者と田辺聖子が男の性というものをどれほど深く冷静に(ある意味冷酷に)理解していたのかということに、少しは思い至れるようになった気がしました。

吉海直人『源氏物語入門 〈桐壺巻〉を読む』(角川ソフィア文庫)

 桐壺の巻に限定して、原文の参照元から研究論文の紹介まで、そして実際の歴史との類似点から物語がいかにして離脱していったのか、そうした諸々のことが本書には詳しく書かれています。

 例えば和歌の引用という点においては、今や『源氏物語引歌索引』がpdfで無料で読める時代になりました。

 けれども漢文からの引用という点では、和歌とは違って解説をより多く必要とすることもあって「これさえ読めば」という決定的な一冊は思い浮かばず、『白氏文集』からの引用に関する論文などを目的に応じて適宜確認する必要があると思うのですが、『源氏物語』を読み進めるのに平行して引用元を(関連が低そうなものまで網羅して)確認できるという意味でも、本書は有用でした。

 例えば冒頭すぐのところで桐壺更衣が「上達部・上人なども、あいなく目をそばめつつ」という扱いをされている描写について、まずは『長恨歌』の一節「京師の長吏これがために目を側む」を指摘した上で(つまり更衣をまずは楊貴妃に重ねて)、続いて『白髪上陽人』の「已に楊貴妃に遥かに目を側めらる」を指摘して(楊貴妃に疎まれ上陽宮に幽閉されたまま、玄宗と会うこともなく白髪となった女性にも重ねて)います。

 実際の歴史との比較という点では、例えば光源氏が数え三歳で袴着の儀式を行った場面について、室町初期の注釈本『河海抄』が三歳着袴の先例として「冷泉、円融、花山、一条」を挙げていることを指摘しています。直近の天皇が軒並み名を連ねているのが怖いですね。
 袴着については、現代では七五三になぞらえた説明が一般的ですが、この注釈を前提に当時の人の受け止め方を推測すると、「桐壺帝は源氏に皇位を継がせる気が満々」としか思えないでしょうし、それは上記『上陽白髪人』の無念さとも相まって、今で言う「ざまあ」的な(少なくとも源氏が報われるような)展開への期待を読者に抱かせたことでしょう。

 何でもない描写の裏側から確かに推測できる、桐壺帝のこうした想いは、桐壺更衣が辞世(作中795首ある和歌の最初の歌)を詠んだ時に返歌ができなかった場面(この贈答不成立という指摘も衝撃的でした)に至って作中に微かに漏れ出て来るのですが、それを読み解くにはここまでの前提知識が必要とされるわけで、本書を通してその凄みを味わえたのは幸運だったと思います。

 そしてだからこそ、桐壺の巻だけなのがとても残念でもありました。原文をただ逐語訳で理解するだけならば、有用な書籍はたくさんありますし何ならネット上の情報でも代用できそうですが、現代語訳を複数読み終えて原文も辞書を片手にそれなりに読めるようになった人が更に理解を深めようと思った時に、全文にわたって本書と同じくらい詳しく補足してくれる書籍が欲しいと切に願います。

土田直鎮『日本の歴史5 王朝の貴族』(中公文庫)

 結局のところ、古典を理解するためには、単語の意味や文法などを学ぶのは当然ですし原文を尊重するのは言うまでもないことですが、深く読み込んでいくほどに当時のことを知っておく必要が出てくるわけで、そうした時にはやはり通史を読むのが有益ですね。

 本書はもう60年ほど前の作品となるので、すっかり時代遅れになった部分も色々とあります。例えば藤原道長が「関白になれなかった」という解釈などはその典型ですが、それは著者の凄味を損なうものではないのだと、再読のたびに実感させられます。
 ちなみに、このシリーズには魅力的な書き手が多く、その中でも、中世までだと5,7,9,10、そして元禄から幕末に当たる16から19はよく読みました。

 さて、最新の研究を踏まえた作品としては、例えば今年だと榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)などがあって、女官についての面白い話が色々と書いてありました。例えば奈良時代の県犬養橘三千代(橘諸兄・光明皇后らの母)と、平安中期の高階貴子(伊周・定子・隆家らの母)の違いを比較するのは楽しい試みでした。

 そのように知識をアップデートした上で、昭和中頃の本作に目を通していくと、現代の成果を知ることで著者がどのように考察を発展させることになるのか、それを疑似体験できるんですね。これは順序が逆だと不可能で、必ず最新の情報を確認した上で古書を読まないと、このような効果は得られません。少なくとも私には無理です。

 では何がそれを可能にしているのかと言うと、それは端的には著者の読み書き能力の凄まじさであろうと思われます。特に文化面での理解の深さは、とても現代人の及ぶところではなく、それが読み書きの両面において我々を惹き付けて止まないのでしょう。

 なお、通史の魅力とは別に、当時の人の手による実際的な記録を読むことには違った魅力があって、例えば藤原実資, 倉本一宏 編『小右記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(角川ソフィア文庫)などは、読み出すと止まらない面白さがありますね。

塚本邦雄『王朝百首』(講談社文芸文庫)

 当初は『新撰 小倉百人一首』(講談社文芸文庫)を読もうとしていたのですが、何となく途中でこちらに目が移ってしまいました。

 それは、本書で選んだ和歌を『新撰〜』では除外しているという事情もありますし、広くお勧めできる本書と狭く熱烈にお勧めできる『定家百首・雪月花(抄)』(講談社文芸文庫)に対して、『新撰〜』がやや中途半端に感じられたことも理由の一つなのですが、『小倉百人一首』はあれはあれで良いのではないかと思えたからでもあります。

 例えば著者は、紫式部の和歌をそれほど高くは評価していません。

めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲がくれにし 夜半の月かな

 分かりやすい歌だと思いますし、友達と再会したものの時間があまりなくて云々という状況も、読む人の心を惹くことでしょう。

 けれどもこの歌と、今から千年も前に「雲隠」という帖の名前だけで本文は一文字も書かないまま光源氏の死を描写したこととを比べてみると、その差は我々のような素人にも一目瞭然です。前者は同時代の才能によって代用可能ですが、後者に匹敵する才能など皆無でしょう。

 それでも、その物語作家としての圧倒的な才能ゆえに、紫式部を百人から除外するなどまず無理な話ですし、かと言って『源氏物語』の中にある歌を紫式部の作として選ぶわけにもいかず(現代なら「涼宮ハルヒ(平野綾)」といった表記が使えるので話は違っていたかもですが)、それならば彼女の偉大さを端的に感じられる「雲がくれ」という言葉を含んだこの歌を選ぶことで敬意を表するべきである、などと藤原定家は考えたのかもしれませんし、定家の父・藤原俊成が「歌詠みの程よりも物書く筆」と述べたことにも繋がるように思います。
 とはいえこうした話は、塚本にとっては言うまでもなく当たり前の前提ではあったと思うのですが。

吉行淳之介 編『酔っぱらい読本』(講談社文芸文庫)

 第三の新人の中では、一番読んだのが吉行でその次が遠藤周作、安岡や小島や阿川は有名な作品のみという感じなのですが、それも集中的に読むというよりは散発的に読んできて、気がつけばたくさん読んでいたと知ってビックリ、という感じだったように思います。
 少し上の第二次戦後派の作家、特に三島由紀夫や安部公房は私も集中的に読み(そして今となっては内容を忘れてしまい)ましたし、周囲でも読んでいる人が多かったのですが、第三の新人はあまり読まれていなかった印象で、それは今もそうなのかなと思います。そもそも文学作品を遡って読むこと自体が、今後はますます珍しくなっていくかもしれませんね。

 さて、そんな私が書店で『吉行淳之介掌篇全集』(中公文庫)を見つけて、ひとまず購入したわけですが、その時に本書がもう新刊では入手できないことを知りました。もったいないというか、とても残念なことだと思ってしまい、購入した本をそっちのけで本書を再読してしまいました(でも掌篇も吉行の味が出ていて良かったです)。

 本書は吉行が編者となって、色んな人から酒にまつわるエッセイを集めて構成したものです。
 その中には坂口謹一郎「『泡はビールなりや否や』事件」とか、檀一雄「酒ならダン!」などタイトルだけでも笑えるものから、埴谷雄高「酒と戦後派」のように酔った頭では理解しきれない内容なのかと思いきや深夜に渡辺一夫の家を訪れてウイスキーを呑ませてもらった上に木彫りの鷹を土産にもらったけど始末に困って翌日返しに行くような話もあって、読んでいて飽きない上に酒を呑みながら読みたくなるんですよねヒック。

 もちろんこれを書きながら呑むなんてことはヒックしておりませんが、炭酸水を置いたコースターの傍らに小皿を持ち出して、そこにじゃがりこやら国産米粉だけで揚げたポテチなどを袋からずさっと取り出して更には膨張剤などが使用されていない卵ボーロを添えてついでに健康的な観点から小魚と千葉県産の落花生なども申し訳程度に盛り合わせておくと卵ボーロの甘さとじゃがりこの塩味が交互に来る上に小魚の苦みが良いアクセントとなって炭酸水があっという間になくなるのでヒックえっと何を言おうとしてたんだっけ。そう、お勧めですよ!……えっ、本書の話はどうなったのかって?いや、だから、本書がお勧めなんですよ!以上!解散!

澤田典子『アテネ 最期の輝き』(講談社学術文庫)

 ペロポネソス戦争(前431年-前404年)以降のアテネについて、詳しく教えてくれる書籍はあまりないと思いますし、カイロネイアの戦い(前338年)以降はほぼないと言っても良さそうで、それは需要がないという理由によるものだと思われます。

 けれども、だからと言って「カイロネイア後にアテネの民主制は衰退した」と理解することは実情に合わないと著者は主張しています。
 むしろ、マラトンの戦い(前490年)からカイロネイアまで、平均すると3年のうち2年は戦争状態にあったアテネにとって、前338年から前322年=アレクサンドロス大王死後にマケドニアに反旗を翻して敗れ(ラミア戦争)アテネの民主制が実際に終焉するまでの十数年間は、前例のない平和な時代であり、アテネの民主制もまた最後の輝きを放っていたと述べています。

 本書ではその間の期間を、弁論家として名を馳せたデモステネスを軸にして描いています。フィリッポス二世への弾劾演説で有名な彼を描く中で、同時代に関わった色々な人の名前が出て来ることになるのですが、滅び行く祖国に生きる人々が暗い運命にどのようにして抗い、時には意図せずその運命を促進させて、ついには自らも国をも滅ぼしてしまうことになる様子を知ることができます。

 例えばアリストテレスは、デモステネスとは生年も、そして不敬罪で告発されてアテネを追われ亡命先で没した年も同じでした。
 デモステネス当人は、幼い頃に父と死に別れて後見人たちに遺産を横領され、それを取り戻すために苦労して弁論術を身に着けた人でしたが、アレクサンドロス大王の財務長官であるにもかかわらず多額の公金を使い込んでアテネに逃げ込んできたハルパロスから20タラントン(熟練労働者の日当の6万から8万倍ほどの額)を収賄した罪で投獄され、亡命を余儀なくされました。そして亡命先でマケドニアとの開戦を呼びかけた功績が認められてアテネに帰還したものの、ラミア戦争に敗れたことで、大王の死後もマケドニア本国を任されていたアンティパトロスの追っ手を受けて服毒自殺を果たします。
 カイロネイアの敗戦後も、そしてラミア戦争後もマケドニアとの講和交渉を担当したフォキオンは、83年の人生のうちストラテゴス=最高位の軍事職に45回も選出された人なのですが、ディアドコイ戦争の混乱の中でソクラテスを思わせるような不当な死刑判決を受けて、それを従容として受け入れてこの世を去りました。

 ここでは名前を挙げなかった人々も含め、遠い昔の出来事でありながらも確かに彼らが生きていたと感じることのできる著者の筆致が印象的でした。

ヘルマン・ディールス, 平田寛 訳『古代技術』(ちくま学芸文庫)

 本書をその範疇に入れて良いのかは少しばかり悩ましいところですが、今回唯一となる自然科学系の書籍となります。

 他にあえて挙げるとすれば、上半期ギリギリに刊行された芝村裕吏『関数電卓がすごい』(ハヤカワ新書)ですが、これも分野としては微妙なところですね。とはいえ発想の勝利と言うべき作品で、色んな計算ができるのが良かったです。
 計算の能力は読み書きと同様に少しずつ衰えていくもので、けれどもその衰えは本人には極めて気付きにくいものなので、意識して定期的に磨き直したほうが良いと思っていまして、それが叶ったので何よりでした。

 さて、本書はもともと1970年に刊行された作品で、しかもそれは1943年に出版されたものの改訳新版であり、原書は1924年に刊行されました。今からちょうど百年前なので、その間の研究成果を思うと読むのを躊躇する気持ちもあったのですが、読み始めてみると著者の語りが魅力的で一気に読んでしまいました(とはいえ興味を抱きにくい分野もあったのですが)。
 それはおそらく、著者が提示した骨子が説得力と柔軟性を備えていたからなのでしょう。

 さて、我々が哲学者として認識している古代ギリシアの著名人たちは、同時に教育者でもあるのは勿論として、時には科学者でもあり技術者でもありました。あるいは、当時の見解では医学もまた技術であり、医師にも職人という側面が色濃くありました。今なお残存している、外科治療に使われた精巧な医療器具の数々がそれを裏付けています。

 しかしながら、当時の人々が技術者に向ける目は寂しいもので、医学と軍事技術以外の分野は興味を持たれていなかったようです。それどころか、医学と軍事分野でさえも、それを支えた多くの技術者たちの名前は、偶然わずかに残ったもの以外は跡形もなく消え去ってしまいました。

 例えば、かろうじて今に残ったパピルスの文書には、七人の有名な機械師の名と業績が簡潔に記されています。しかし、そのうち四人は今日まったく知られていないし、残る三人も表層的な情報しか伝わっていません。

 クセルクセスの命でダーダネルス海峡に架橋したハルパロス。フィリッポス二世のためにビザンティオンで攻城機械を、ロドスで四輪を製作したポリュエイドス。ポリュエイドスの門下でアレクサンドロスの東征に従いテュロスその他の町々の包囲攻撃を指導したディアデス。

 特にディアデスについては、様々な軍用機器を発明し、その技術を教科書に書いているにもかかわらず、当時の歴史家は彼の名を記すことなく、攻城戦で一番乗りを果たした兵士の名前や戦闘の詳しい様子ばかりを長々と語っているとのこと。

 更にはあのアルキメデスでさえも、死後百年ほどの間は同郷人からも忘れられていて、かつて敵として戦ったローマ人が彼に興味を抱き続けたおかげで著作が保存されることになったと述べています。

 当時の技術についての知見もさることながら、古代の科学者たちが理論のみで満足せず技術という形で実際の成果を求めて行動していたこと、そんな彼らを評価する人は専門を同じくする人々の他にはごく僅かだったことは、現代に照らし合わせて考えさせられるものがありました。

岩明均『ヒストリエ (12)』(アフタヌーンKC)

 上記の二冊を読んでいた時には、まさか新巻が出るとは思ってもいなかったのですが、思いがけず予習として機能したのが面白かったです。
 とはいえ最新巻の内容とは少しズレていて、『アテネ 最期の輝き』であればアテネを訪れた9巻やカイロネイアの戦いが描かれた10巻、『古代技術』であればディアデスと親しくなってビザンティオンの攻囲戦が描かれる5巻から7巻あたりを読むのに有用でしょう。

 この12巻の内容について参考になるのは森谷公俊『アレクサンドロスとオリュンピアス』(ちくま学芸文庫)で、これを読んでいればドヤ顔ができるほどですが、特にドヤ顔にならなくても本作は充分に楽しむことができます(とはいえ上記の作品も強くお勧めできる作品なので、読めるなら読んでみて欲しいところです)。

 本作を振り返ってみると、主人公エウメネスの生い立ちや、青春期を描いた「パフラゴニアにて」などは、記録が残っていない時期ゆえに作者の創作なのですが、同時代の様々な人のエピソードを織り込みながら描いた前者も、明確に『オデュッセイア』を意識した作りになっていてビターでありながらも後味が悪いとは言い切れない結末を迎える絶妙な中編であり後のディアドコイ戦争期に繋がることをも予感させる後者も、それぞれに読み応えのある内容でした。

 エウメネスは故郷カルディアを再訪した後に、「一つ眼の巨人」たるフィリッポス二世に仕えることになり、そこから史実の色が徐々に濃くなってくるわけですが、そうした変化は本作に今までとは違った魅力を与えることになります。それをもたらす要因のうち最たるものは、おそらく作中で断続的に披露される「未来の予言」でしょう。

 この12巻では、歴史上の大事件であるフィリッポス二世の暗殺が描かれています。それはアレクサンドロス大王の誕生であると同時に、フィクションとしてはアンティゴノスの誕生が仄めかされています。心臓と脳はそのままに、おそらく輸血を始めとした移植医療あるいは再生医療が行われたと考えられ、隻眼の左右も史実の通りに入れ替わるのかもしれません。

 その辺りは期待通りの展開でしたが、エウリュディケが死の間際に男児が「いずれ王になる」と言い残した場面は鳥肌が立ちました。それはつまり男児が、後に父アンティゴノスと共に王位を宣言することになるデメトリオス(前337年生まれ!)であることを示唆していて、それが既に密かに10巻で仄めかされていたことにも気付いたからです。

 つまり12巻でも引用されていたように、カイロネイアの戦いにおいてフィリッポス二世は「王子の戦いぶり」に言及して、「いっそこの場で死んでくれれば」とまで口にしていました。

 そして史実では、前301年のイプソスの戦いにて、騎兵を率いた息子デメトリオスは敵陣に深入りしすぎてしまい、その間に父アンティゴノスの本隊は敵の攻撃を支えきれずに壊滅しました。作者はその光景をカイロネイアの描写に重ねていたはずで、先程の発言は予言の変種であろうと思われます。

 イプソスの戦いが、つまりアンティゴノスの死に様が漫画で描かれることは(再生医療の超技術などが発明されない限りは)残念ながら望み薄ですが、作者は既にそれを仕込み終えていて、おそらくアンティゴノスは息子デメトリオスの死を避けるために、王子アレクサンドロスが率いていたよりも多くの騎兵を配してデメトリオスの孤立を回避して、けれどもその分だけ本陣は脆弱になったと考えられ、アンティゴノスはその采配が何をもたらすのかを知っていたのでしょう。

 つまり敗戦となれば自身か息子か、いずれかの死は免れないと悟った上での決断だったのでしょうし、とは言っても最後まで勝つことを、自分もまた生き延びることを模索し続けた上での結末だったはずで、それは12巻において母エウリュディケが取った行動と完全に重なります。

 本作がアレクサンドロスの東征を描き切れるのか、そしてディアドコイ戦争を描けるのかについては過度な期待は禁物ですが、史実を確認することで大まかな予想は立てられます。少しお値段は張りますが、プルタルコス, 城江良和 訳『英雄伝 4』(西洋古典叢書)などがお勧めです。

 けれどもそれで満足できるかと言われると到底首肯できないわけで、時系列を越えてこのような描き方ができるというのは驚きでもあり、この作品が作者にしか描けない(別の人を作画担当にすることさえも不可能な)ことの証明でもあるように思えたのでした。

HAJI『ヒンメルはもういないじゃない』

 最後に、ネット上の作品から一つ選んでみました。

 二次作品というものは原作からキャラクターや設定や展開などをお借りした上で書かれるものなので、私は自戒のためにも「二次創作」という表現を避けるようにしています(他の人が使うことに対して目くじらを立てる気はありません)。

 とはいえ絶対に避けるべきかというと、そうとも言い切れないのは、二次作品の中には確かに「創作」と表現すべき作品が存在しているからで、例えば原作と同じテーマに原作とは違った方向から挑めている(挑んで成果を出せている)作品などはそれに当て嵌まるのではないかと思います。

 本作の原作たる『葬送のフリーレン』という作品において、魔族は人間と違って死体が残らないなどの違いがありますが、それ以上に精神性の違いが強調されています。それを読者に強く印象付けたのが、本作のタイトルにもなっている「ヒンメルはもういないじゃない」というアウラの発言でした。

 この発言が広く共感と興味を喚起したのは、現実において「文化がちがーう!」と叫びたくなるような経験が、例えば「言葉は通じるのに話が通じない」といった経験が多くの人にあるからだと考えられます。

 けれどもこの手の行き違いは魔族だけではなく、普通の人よりも遙かに長い寿命を持つエルフとして生まれ育ったフリーレンにも見られたことでした。フリーレンはヒンメルの死を契機として、その精神性を魔族寄りから人間寄りへと変えていくことになります。

 でも、魔族がその精神性を変化させることは、絶対にあり得ないのでしょうか?
 魔族は人を欺くと言いますが、人が魔族を、あるいは他の人を欺くことと何が違うのでしょうか?

 本作は勇者ヒンメルの死から28年後の「現在」から始まりますが、少しずつ「過去」の出来事が明らかになっていきます。その「過去」において、アウラは勇者ヒンメルの監視下に置かれ、彼と多くの時間を過ごします。その経験はアウラの精神性に変化をもたらしますが、魔族としての本能に逆らうような変化が果たして彼女に定着するのか、そんな疑念が本作の緊張感を維持しています。

 ヒンメルを通して他の人間とも多くの時間を共有することになっていくアウラと、行方不明のままのフリーレン。けれどもフリーレンにはヒンメルとの約束があり、そしてヒンメルはその約束に先駆けて、アウラとの約束を果たすことになります。そして──。

 原作とは違う展開になっても、各キャラは原作の延長そのままに違和感なく描かれています。現在と過去を巧みに重ね合わせた構成も見事なもので、文章表現も秀でています。何よりも、原作のテーマと寄り添いながら展開されていく物語が、そのテーマを更に深掘りして、アウラやヒンメルといった各キャラの魅力をいっそう引き出しています。

 二次作品には色んな作風があり、本作は原作好きの人が気軽に楽しめるような作品とは少し違いますが、原作が好きでじっくりと読み込めるような作品を求める人にとっては、満足できるだけの質と量を備えた作品だと言えるのではないかと思いました。

おわりに

 今回はノンフィクション、エンタメ、スポーツ系などは全く選べず、海外物も小説も少なめで、結果的に偏った選出となりました。残念ながらこうした流れは来年以降も変わらないと思われますし、読める量も減っていくのだと思います。
 それでもやはり面白いものは面白いとしか言い様がなくて、語り始めると短く済ませるのが難しいですね。

 ちなみに、年末は毎年バタバタしているので下半期ベストを選べた例しがなくて、なので過去一年のベストを選ぶ手もありかと少し悩んだのですが、下半期は謎のまま残しておくのも一興かと思って、例年通り上半期限定で選びました。

 それぞれの作品の魅力をかなり真面目に語ったつもりですが、それは逆に、もともと興味を惹かれていなかった作品を更に遠ざける(細かい話が多くて敬遠される)結果を招くかもしれず、適切な書き方というものは難しいなと改めて思いました。

 それでも私にできる範囲で、これらの作品に興味を持ってもらえるような書き方をしたつもりですし、この記事を読んで下さった人の誰か一人でも、たとえ一冊でも、手に取ってくれたら良いなと願っています。

 以上、ここまで読んで下さってありがとうございました!


7/10未明、以下追記。

 創作という話について更新後に考えたことを少しだけ追記しておきます。

 例えば『ヒストリエ』において、史実に忠実であることよりも「このエウメネスとフィリッポス二世のやり取りをもっと見たい」と読者が思えた時に、「この作品は創作という要素を備えている」と明確に言えるのではないかと思いました。

 そして『ヒンメルはもういないじゃない』においても、作中の行動を見て「ヒンメルならそうする」と思える段階を超えて、「このヒンメルならそうする」と感じられた時に、それは二次創作だと断言できるのだと思います。
(ちょっとハードルを上げすぎている気もしますし、創作という言葉をもっと気軽に使っても良いとは思うのですが。)

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