見出し画像

エルヴェシウスについて

お!!!!?エルヴェシウス著『精神論』の日本語訳が今年7月上旬に発売?

数年前にエルヴェシウス著『人間論』の抄訳を読んだきり、古本屋では買いそびれて価格高騰して、『人間論』の文庫出してくれよーい!と思いながら時が経ち、『精神論』の方かい!とは思いつつ、『精神論』は読んだことないので、『人間論』の記憶を辿りながら思い出せる範囲でエルヴェシウスの紹介文を、、、そして、エルヴェシウスの紹介から脱線、色々吐き出して頭の中に空きスペースを作るための殴り書きをしてしまった。

たまにこうやって吐き出すと、もっか考えていることを整理するのに具合が良いみたいだ。

さて、18世紀フランスの、勉強ができない子どもだったエルヴェシウスは、「この子どもは褒めれば伸びるぞ?」と見抜いた教師の策略にはまり、まんまと知性を伸ばした。

この教師は、エルヴェシウスに様々な書籍を読ませた、各書物のチャームポイントと欠点とを指摘させた。その本の良いところと悪いところと両方見つけてはじめて自分成りに咀嚼を始めたこととする。本に何が書いてあったかを知るに留まれば、応用の効かない、、、ということなら、ルソーが書いた教育論『エミール』にある「他人の目を使って見たものは、その目が失くなれば何も見えなくなってしまう」旨の句を想起させられる。

エルヴェシウスが最もライバル視したのは、ジャン・ジャック・ルソーだ。著書『人間論』では、何とかルソーの欠点をついてやろうと戦っているが、基本的には尊敬していたようだ。

また、18世紀フランスにおける哲学は、ほぼ哲学=反キリスト教であった。『人間論』の中でもカソリックのジェスイット (イエズス会) への批判攻撃の言葉が多く見られる。

『アイデンティティが人を殺す』アミン・マアルーフ 小野正嗣 訳 に込められた「宗教が人びとを変えるだけではなく、人びともまた宗教を変えてきた」旨の句を咀嚼反芻しながら、特定の宗派に限らず多くの文化的な変化をもたらす切っ掛けをつくったのが18世紀フランスだったのかもしれないことを想像する、17世紀イギリスのジョン・ロックやニュートンから引き継いで発展させた、経験、実験と観察を大切にした時代だ。

宗教的帰属を目印とした戦争について考えていたエルヴェシウスは、平和のためには「世界宗教」なるものが必要なのでは?と考えた。今でいうところの地球規模のグローバリゼーションとか、判断基準の共有を目指すようなところのアイディアだ。勿論、既にグローバリゼーションにおける問題点は多く指摘されているが、妥協し合って互いに敵対関係/不当な搾取の関係を解けないか?ということなのだろう。これ以前にも同じようなことを考えた者はいたのかもしれない。

また、エルヴェシウスから影響を受けたことを公言しているジェレミー・ベンサムは、国家間についての「international (国際的)」という語を作った(他にもたくさんの造語を作ったが、現代でも使われている語は僅か、、、)。直接的にエルヴェシウスの「世界宗教」概念からベンサムのinternational という語に発展したのかどうかはわからないが、international概念とベンサムやエルヴェシウスの文献が深く結びついているのは確かだろう。

また、『人間論』は教育論であり、男/女のような身体的器質によって知能を左右するわけではなく、環境と教育、与えられるチャンスによって知能が左右されるという推論を記した。

しかしディドロなどは「知的な女もいるが、それは例外だ!」とエルヴェシウスの論を否定しようと必死になっていたが非論理的で、まあ、百科全書プロジェクトにも関わっていたエルヴェシウスの『精神論』がジェスイットから禁書扱いを受けて(生前に出版したのは『精神論』のみ、これ以上出版すると命が危ないし、同時代の人々にはまだ早い内容だと思ったのか?)、百科全書がエルヴェシウスの巻き添えをくらって出版できなくなることを恐れて、エルヴェシウスを切り落とそうと考えていたらしい、、、ディドロはな~んか幾つかの文献読んでて気色悪りぃな~と感じてしまい、いつか冷静に読み直さねばとは思うのだが。。

18世紀フランスでは、何人かの知的な婦人がサロンを開いていて、そこで交わされた会話がもとで、この時代の思想が育まれことも『人間論』の中で紹介されている、ルソーは社交界にはめったに顔を出さなかったようだが。あるサロンでの◯◯婦人との会話をもとにこの書を書いたという或る作家(エルヴェシウスではなく、別の誰かだったと記憶する)の談話もあり、しかしその本には男の名前のみ記され残る、これには次の時代まで待たなければならないものがあるようだ、否、今もまだまだ足りないか。

また、或る冒険家の文献を読む限り、西洋とは違ったかたちでの知性のあり方があるようだ、という旨の記述も『人間論』のなかにあり、フランスでこの本がいつ出版されたのか覚えてないが、しかし色々と、マリノフスキーやモースやレヴィ=ストロースの登場を待たねばならなかったようだ、否、今もまだまだ足りないか。。

さらに、「詩人に生まれて、後に演説家になった」旨の誰かの句に対する批判として、生まれながらの器質が知性を左右するのではなく、教育/体験が知性/才能を育むのだという意図から、「人間に生まれるのではない、人間に成るのだ」旨の句も『人間論』にあり、手柄がどーのこーのではなく、直接的な影響があるかどうかもわからないが、フランスの人権宣言に対してオラプ・ド・グージュが「その権利、女にも必要じゃね?」旨発言したように、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「女に生まれるのではない、女になるのだ」旨の句に繋がる流れを想像すると、エルヴェシウスにも愛着がわく。尤も、18世紀フランスの経験論者が皆揃って男であったことは、彼らが「女であること」を経験出来なかったことを意味し、そのまま彼らのみに任せて、フェミニズムの夜明けを待つのは、、、心細い。

ここからは完全に脱線しますが、ジェレミー・ベンサムといえば、ミシェル・フーコーが「生政治」の例えでパノプティコンを使ったことで広く知られているので、ネガティブな印象が強いのかしら? 

生政治の概念はとても重要だと思うし、何の文句もないけれど、まず、パノプティコンを設計したのはジェレミーではなく、技師であったの弟のサミュエル・ベンサムであった。長い廊下を行ったり来たりしないでも済むようにと一望できる中央監視システム「パノプティコン」は、ロシアのワークハウス(貧民に労働を与えて最低の生活を可能にする施設)のためにサミュエルが考案した。サミュエルは、暖かいスチームを各部屋に送ることが出来る暖房装置も考案している。これを知った兄のジェレミーはすぐさま、様々な応用の出来るシステムだ!と気付き、中でも監獄に適している!!として、最低のくらしを監獄の中と設定して、まずはその暮らしから改善を目指し、国民?全体としての幸福をあげようとした、多分。

監獄としてのパノプティコンが最初に建築される予定だった土地では、ちゃんと許可を取っていたはずがギリギリのところで頓挫した?とか、その場所に今はテート・モダンが建っているとか。。その後様々な国々に監獄としてのパノプティコンが建設され、今でも残っているようだ。

他にも、ベンサムは、同性愛は誰の幸福も奪わないしむしろ当人同士の幸福を上げあっているとして、同性愛を肯定した。

また、医学の発展のために自らの身体を献体に捧げた。この時代のイギリスでは、遺体を弄られることは、火炙りの刑などと並ぶくらいの抵抗感を示す人が少なくなかったとかとか。。

さらに、献体で臓器の取り除かれた遺体は、ジェレミーの指示通りミーラ化の処理が施され、死後も自分の意志を継いで励むように!的な願いから「オート・イコン」と呼ばせて、UCL の図書館の前に設置された。しかし頭の処理に失敗して腐ってしまい、もげた頭を学生がサッカーボールのように蹴飛ばして遊んだ為に、今では、特別なとき?にしか公開されないそうだ。因みに、今ののオート・イコンの頭は蝋でつくられて補強されているそうだ。

まあ、ここまでだらだらと紹介しただけで察してらっしゃる方も多いかと思いますが、ジェレミー・ベンサムに欠点がないのか?といえば、全くそんなことはなく、、、ジェレミー・ベンサムは、或る友人と共にその友人の息子に英才教育を施した。徹底的な教育だったのだろう、この子は、ある年齢に達する頃には精神的に追い詰められていた。この子どもは後に自力で復活を遂げたようだが、その詳細が書かれた文献は未だ読んだことがない。この英才教育を施された子どもは、彼の父と同じく東インド会社(インドのスパイスを取り扱う大会社)に就職し、在野の思想家としても知られ、バートランド・ラッセルの名付け親でもある、ジョン・スチュアート・ミルだ。。

ジョン・ロールズが『正義論』においてちょこっとベンサム批判をして、さらに、マイケル・サンデルが問いかけ、若い学生さん相手に答えさせる対話形式で、、、

確かにベンサムには欠点があり、、リスクもあるけど、、、すっかりベンサムや功利主義がまるごと悪きものであるというキャンペーンが定着して決定的なものとなったからか、功利主義→ウェルビーインクという語に変化して、内容も変化して生き残っているのか?

私も、ベンサムの書籍をしっかり読めてないけど、例えば「輪廻転生」と「カルマ」の概念がセットになったときのように、とても危険な殺人的な行為を肯定する道具にもなれば、強い救済の道具にもなるようなものを、まるごと悪/善のどちらかだ!と判断するのではなく、立場や場合によるだろ、と。。他にも色々と、毒にも薬にも成るものを見直していきたい。

そんな心構えの内に、エルヴェシウス著『精神論』の日本語訳が出版されるのは、楽しみだ。

念のために、『人間論』の内容から察するに、「頑張ればどーにかなる!お前がダメなのは気合いが足らんからだ!」という単純な意味の「精神論」とは少し違うはずだ。

ここで一旦、止める。わあ、こーゆーのが頭のなかにぐちゃぐちゃ残ってるからどんどん鈍ってくるんだな、定期的に整理しないとな、もっか仮止めしてまとめたいこととは関係ない、どーでもいーことばっかりだ。否、本当は、関係ないと思うことこそ最も深いところで関係している、というお決まりのパターンもあるのかしら?


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?