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ウクライナのことを考えながら、やっとGWに映画『ひまわり』を観直した

《本記事には、タイトルに記載した映画のネタバレがあります!》

GWに映画を何本か観た。

新しく観た映画もあるし、大昔に観たまま、細部を忘れがちな映画も少し観直した。

タイトルにも書いているとおり、イタリア出身のヴィットリオ・デ・シーカ監督の映画『ひまわり』を観直した。

因みに、本記事のトップ画像は、同映画の中の「ひまわり畑」ではなく、数年前に福岡に旅行に行ったとき、船に乗って「能古島」に行って撮ってきた写真である。

さて、『ひまわり』「観直した」と偉そうに書くほど、内容を明確に覚えてはいなかったのだが、1つのシーンが印象に残っていた(因みに「ひまわり畑」のシーンではない)。

本作、昨年のGWで「観直した」記事を書いてもよいくらいの周回遅れ記事かもしれないが、何事も人それぞれタイミングがあるのだと思う(来年のGWには、今さらSLAM DUNKの映画のことなど書いているかもしれない)。

メディア情報で既にご存じの方も多いと思われ、「今さらかよ!」と思われる方は斜め読みしていただければと思うが、作中で画面いっぱいに広がる「ひまわり畑」のロケ地がウクライナであるらしい。

同作が戦争をモチーフにした映画でもあることから、兼ねてから昨今のウクライナ情勢とあわせて取り沙汰されている次第である。

ロシアのウクライナ侵攻が開始された直後、要するに1年以上も前から言われている話であり、各地の映画館で同作を再上映したり、ウクライナの国花であるらしい「ひまわり」を捧げる反戦活動が世界で展開されているらしい。

私も昔から知っていたわけでなく、メディアを通じて「へっ?そうなんすか」と知っただけである。

「ひまわり畑」の具体的なロケ地も最初はヘルソン州と言われていて、無邪気に「ほぅほぅ」と頷いていたが、色々と議論が出てきて、そのたび相変わらず「ほぅほぅ」と頷いているようなレベルである。

そんなこんなで、最初、本記事のタイトルも「ウクライナを想いながら~」にしようと思ったが、「想う」と言うのもおこがましいので、単に「ウクライナのことを考えながら~」という控え目なタイトルに変えた。

映画を純粋にもう一度味わうために「観直してみようかな」と思いながら「心の中の積み映画」になっており、ダラダラと今年のGWに至ったわけである。


ところで、上にも書いたとおり、同作を初めてを観たのは大昔であり、当時はさほどノリノリで観たわけでもなく、単に「ソフィア・ローレンってどんな人?名前よく聞くけど、そこまで美人なのか?」ぐらいの冷やかし半分で観ていた。

同作での主演の時点で、ソフィア・ローレンは(オフィシャルな情報では)30代後半である。

失礼ながら、当時の私よりも1周り以上も年上であり、「何かすごく鼻が高くて、典型的な西洋人っぽい顔だな」ぐらいの印象であり、「それより、こっちのロシア人のお姐さん、何かス・テ・キ!」みたいな気持ちであった(ソフィア・ローレンのファンの方には申し訳ないが)。

その後、ソフィア・ローレンに対する印象も少し変わっていったのだが、『ひまわり』からどんどん離れていくので、少し映画の話に戻ろうと思う。

いつか公開
『典型的な西洋人の顔をしたお姐さん、銭湯に行く』
(ハミングバード監督)

映画『ひまわり』は、第二次世界大戦の最中から終戦後にかけてのイタリア(とロシア)を主な舞台としている。

戦時中、(ソフィア・ローレン演じる)ジョバンナと(マルチェロ・マストロヤンニ演じる)アントニオは恋に落ち、結婚する。

兵役を免れるため、精神疾患を装うアントニオではあったが、嘘がバレてロシア(当時のソ連)戦線へと送り込まれる。

やがて戦争が終わり、アントニオの帰国を待つジョバンナではあったが、夫は一向に戻って来ない。

「夫は必ず生きている筈」と信じるジョバンナは、単身ソ連に乗り込むが、、、

本作をひと言で総括するのであれば、「戦争に引き裂かれた1組の夫婦の悲哀を描いた物語」である。

まだ本作を観ていない方のために、『ひまわり』は「戦争映画」ということにはなろうが、「夫が戦争に行きました」から「戦争が終わりました」があっという間であり、『フルメタル・ジャケット』とか『プライベート・ライアン』みたいな戦争のグロい描写などはない。

誤解を恐れずに言うと、『ひまわり』は私にとっては、ひたすらに「陰鬱で切ない」映画である。

これは、10代の頃に同作を観終えたときの第一印象とさほど変わらない。

冒頭の夫が戦争に行く前、「起承転結」の「起」あたりは、少しコミカルな演出もあったりするのだが、その後はひたらすに暗く切ないムードで映画は進行し、ラストも救いがない。

内容の陰鬱さに拍車をかけるが如く、ヘンリー・マンシーニの主題曲が悲哀さを煽るのである。

「ひまわり」という花、実はちょっとした淡い思い出があって(恥ずかしいので、どんな思い出かは内緒だが、、、って誰も興味なさそうでもあるが)、結構好きなのである。

画面いっぱいにこれでもか!と訴えかける「ひまわり畑」、本来であれば、私の心を癒してくれる存在の筈である。

しかしながら、ジョバンナが乗る列車の窓から突如広がる一面の美しい「ひまわり畑」は、(同シーンにおけるジョバンナの心情に深く共鳴してしまっているがゆえに)主題曲との相乗効果で、心に重くのしかかる。

映画タイトルのネタバレにもなるが、地平線の彼方まで続くひまわり畑を前に、現地女性がジョバンナに対し、「多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っている」と伝える。

それに対し、ジョバンナが気丈に「私の夫はひまわりの下にはいません」と言い返すシーンは私の心に刻み込まれている。

そのように作中における「ひまわり畑」が象徴するものの意味を知ったとき、先ほど感じた重圧が、今度は鋭利な刃物になって、またもや心を抉る気がするのである。

本作のタイトルであるが、私のような凡人であればきっと「戦火の傷跡」とか「はるばる来たぜモスクワへ」とか、何かしら「戦争」に寄せたものにしてしまう気がする。

タイトルを『ひまわり』にしたところが、さすがにウ~ンと唸ってしまう(原題も"I Girasoli"と「ひまわり」であるようだ)。

戦争の「過酷さ」と「悲惨さ」とかを看板に出さず、対極的に美しい「ひまわり畑」の裏にそれらを隠すことにより、結果的に「ひまわり畑」が綺麗で美しければ美しいほど、逆に残酷なものの象徴みたいに心に入り込んでくるのかもしれない。

そこに(少なくとも)私は、「美しい景観と耳に残る音楽」が、切ないムードを和ませるといったような「優しさ」は微塵も感じなかった。


ところで、冒頭にチラッと書いたが、10代の頃に本作を観たとき、「ひまわり畑」とは別に、なぜか1つのシーンが強く印象に残っていた。

それは、酷寒のロシアの雪原をマーシャがアントニオを引き摺って家まで連れてゆくシーンである。

(マーシャを演じたのは、リュドミラ・サベーリエワさんという女優さんらしいが、恐縮ながら、何かス・テ・キ!ということ以外はほぼほぼ存じあげない)

上手く説明できないのだが、雪国の厳しい環境下で周りにゴロゴロと死体が転がっている中、美しい現地の女性が自分より体格の良い男性(しかも敵国の兵士)の絶えゆく命を救うために、1人で男の体をズルズルと引き摺ってゆくというのが何とも異様でショッキングな絵として映ったのである。

色んな映画に「1番好きなシーン」というのがあり、ここは本作で一番好きなシーンとなろうが、なぜこのシーンにそこまでインパクトを受けたのか上手く説明できないのが歯痒い。

上に自分なりに言葉をこねくり回してみたが、何とも隔靴掻痒である。

引き摺らずに、片手で担ぎそうな人

上に書いたとおり、『ひまわり』は私にとって、ひたすらに「陰鬱で切ない戦争映画」である。

そこには戦闘シーンの派手なドンパチや戦場で芽生える友情、残酷な敵国兵士に一矢を報いるようなカタルシスもない。

本作を観終わった後も、ラストシーンで去り行く列車が残像として脳裏に残るだけである。

だが、そうであるがゆえに、正に戦争の「悲惨さ」や、それに巻き込まれた人間の遣る瀬無さを忠実に描き出した作品であるとも感じるのである。

要するに、戦火の後には、ひたすらに「陰鬱で切ない現実」があるだけなのであろう。

(完)

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