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いわば和製版ララランド?どんな人にも刺さる。とにかく共感を呼んだ「花束みたいな恋をした」


【本作概要】

2020年公開。「ビリギャル」で一躍その名をしらしめた土井裕泰監督、「カルテット」で知られる坂本裕二脚本。有村架純と菅田将暉主演作の恋愛映画。

あらすじ


明大前駅で終電を逃した男女が出会い、趣味も価値観も同じと意気投合したそんな2人の恋愛模様が描かれていく本作。
2人の馴れ初めから、恋人同士になって行く様子、それからの2人のその後の未来までが描かれている。



マーケティング的秘策

本作は恋愛映画として、主演2人はもちろん、製作陣のネームバリューも相まって、公開決定時よりじわりじわりと話題を呼び、その細かなマーケティング手法にも注目が集まり、コロナ禍で大ヒットを収める作品となった。

昨今の映画作品の宣伝手法にはとにかく驚かされることが多く、ツイッターを始めとした特徴的なSNSでの宣伝方法が話題となったアリ・アスター監督作の「ミッドサマー」は記憶にも新しい。

本作も、当初から話題性を集めていたとは言え、その宣伝方法はとにかく工夫が凝らされていて、私自身まんまとそのマーケティングにしてやられた。だって、見たくなるでしょ、あんな宣伝されたら。(詳細は上記記事にて)


風刺映画>恋愛映画だった件


私自身、本作=恋愛映画という位置付けの先入観を鑑賞前から持ち合わせ、鑑賞に臨んだ節があった。

けれど、次第に観進めていくにあたり、胸の一部がキリキリと痛むようになる。そしてじわじわとくる違和感。


なぜか。


本作は、主人公2人の恋愛模様となるメインストーリーが展開する中で、実は監督の描かれ方によって、主人公2人に対してはもちろん、観ている我々に対しても痛烈なメッセージを放つものとなっていたことに後々気付かされた。


※本記事以下より映画「花束みたいな恋をした」のネタバレを含みます



①本作が実は痛烈な風刺作品である点

世間で流行する大衆カルチャー的ないわゆるミーハーなものに対して嫌悪感を抱き、自分が好きだと誇るものに対して確固たる誇りがある主人公の麦と絹。(改めて名前が可愛い)

まるで自分は見る目がある!なんであんなものに惹かれちゃうの?本当の良さがわかる人ならあれにハマるわけなくない?

そんなスタンスを貫く麦と絹はやはりとっても象徴的だし、そんな私の好みと意気投合しちゃうんですか?!あなたも??!みたいな運命論。勢いでどんどん進んで行く。

本作で特徴的なのが、2人のハマっている趣味の領域における実際の固有名詞の登場率の高さ。そしてそれぞれのそのチョイスの妙。

本作でテーマソングを歌っているAwesome City Clubや絹と麦の2人が歌う、きのこ帝国のクロノスタシス…特に絹、麦と同世代なら痛烈に響く、そう。あれです。いわゆる、サブカルクソ野郎たちなんです、ええ。(口悪)

個人的にうわ…と思ってしまったセリフが、広告代理店に勤める絹(麦かも)の両親とのやり取りの中で

「あ〜、自分ワンオクも聞けます。」というセリフ。

聞けますけど、好みじゃないですね的な。こういう象徴的なシーンが本作には多く登場する。

流行りの大衆文化をちょっと見下してくる感じ。

出てくるサブカル固有名詞が全て、彼らにとっては「周りと違う何かを感じ取れる自分たち、自分たちだけにしか分からない」者同士、誇りに感じる象徴的な事物なのかもしれないが、本作でのその切り取られ方、ラストで二人がかつての自分たちと同じようなやり取りをするカップルと居合わせるシーンを見ると、そのマイノリティの悦に浸りがちな人々=もはやマジョリティな二人を切り取って風刺されていると感じられたのでした。


②身に覚えのある既視感、デジャブ。それはララランド。

二人にとって互いの価値観がすれ違っていないかのバロメーターとして度々登場する小説、今村夏子さんの「ピクニック」

「その人は、きっと今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人だよ」

このセリフが劇中には何度か登場する。

就職活動や、日々の仕事に追われて理不尽な大人たちに出会っていく中で、

「今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない大人にはなりたくない。」


この共通言語が、丁寧に描写され続けて、観客側にも刷り込まれるおかげで、仕事に忙殺される菅田将暉演じる麦が放ったこんなセリフたちがとにかく刺さった。

「俺も、いま今村夏子さんのピクニック読んで何も感じないかも」

「パズドラしかしたくないんだよね」


このセリフが有村架純演じる絹にはぐさっと刺さる。

そして水面下でぐらついていただけの二人の関係性も目に見えてグッと変化をし始める。


お互いにやりたいことがあって、それと並行して、その時一緒に歩んでいるパートナーとの未来もお互い描くものがそれぞれあって。


けれどいつの間にか、自分の夢の形が歪んだり、諦めてしまっても構わない、自分の愛する誰かと幸せになるためが先行して先走って、そんな大切な相手との関係を壊してしまうケース。


本作を観ていて、私は2016年公開、ディミアン・チャゼル監督作のララランドを思い出してしまった。


主人公である、自分でジャズバーを持つ夢を追うセブと、女優になる夢を追いかけているミア。次第に自分の夢より、ミアとの未来に向け、自分の夢を妥協する形をとるようになるセブ。それは、夢を多少妥協してしまってでもミアとの未来を優先したいセブの精一杯の決断であるにも関わらず、それに対し違和感を持ち、彼の価値観にも疑問を抱くようになってしまうミア。

ちなみに割と二人も自分たちはどこか普通と違う、そんな意識を持っている点も本作と似ている点かもしれません。ララランドの二人も本作同様、最終的に別れを選んでしまう。



そこで気づく。

「花束みたいな恋をした」、もしや和製版ララランドでは…?


菅田将暉演じる麦も、セブ同様にパートナーである絹との幸せな未来を歩む為に、イラストレーターの夢を諦めて就職活動をし、サラリーマンとして働くようになる。


結局仕事に忙殺され、本来出会った時に意気投合するきっかけでもあった小説や漫画、映画鑑賞などの二人で一緒に楽しめていた時間がどんどん減少していく。

そして訪れる別れ。


誰かと人生を歩んでいく中で、同じ歩幅で歩きたい。同じところを目指していたい。その人と一緒に幸せになりたい。きっとみんなそう感じているはずなのに、うまくいかなくなってしまう人間のジレンマに綺麗な答えが出るのは一体いつなんだろうか。


人類にとっての永遠の課題なのかもしれないですね。(いや終わり方)







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