見出し画像

2022年5月12日時点の幸福論

この記事は、2022年5月12日22:47にTumblrに投稿した記事を転記したものです。


人生が終わるとき、はたして何が残っているだろう。
自分の送った一生を老齢になって眺めると、なぜ人生はかくも短いのだろう。
それは、人生と追憶の短さが重なり合うせいである。

つまり、取るに足らぬことはすべて、不快なこともその多くが思い出から抜け落ちるため、残っているものはほとんどない。

そもそも知性はきわめて不完全なものだが、記憶も同様である。

習得したことであれ、過ぎ去ったことであれ、どちらも忘却の淵に徐々に沈めたくはないというのであれば、習い覚えたことを繰り返し練習し、過去をじっくり嚙みしめねばならない。

取るに足らぬことは反芻しないのが常であり、不快なこともたいていは反芻しないけれども、こうしたことを記憶にとどめようとするなら、じっくり嚙みしめることが必要だろう。

だが取るに足らぬことは、増えるいっぽうだ。はじめは重大に思えた様々なことが、頻繁に生じ、しまいに数え切れぬほどくり返されると、しだいに取るに足らぬものになってくる。

若いころのことを後年のことよりもよく覚えているのは、そのためだ。

長生きすればするほど、後になっても反芻に値するほど大切もしくは価値あると思える出来事は少なくなり、反芻された場合のみ、記憶にしっかりと刻まれてゆく。出来事は終わるやいなや、たちまち忘れ去られる。こうして時は、ますます何の痕跡もとどめずに過ぎてゆく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?