父親

小学3年生 佐賀県へ引っ越してきた。

父の実家(叔父さんの家)へ しばらく住まわせてもらった。 肩身の狭い日々が続いた。

父は、自力で職も探さず 家も見つけない。

私には【記憶がない】

母が出ていってから、どうやって転校して福岡県から佐賀県へ行ったのか? 覚えていない。

親戚一同で家族会議もあったそうだ。

「ヒカリちゃんは、女の子だから お母さんと一緒に住むのが良いんじゃない?」

私は首を横に振った。

大好きなお母さん、やっと会えたお母さん‥。

だけど私には 同じぐらい大好きな「兄」がいた。

兄はとても頭が良く、ぜったい大学に進学したいと決めていた。当時、経済的に有利だったのは父親の方だった。母はパートしかした事がない。

兄は進学したいので『父親と暮らす。』と言った。

誰が何と言おうと私は「お兄ちゃんは?お兄ちゃんと一緒にいる!」と。

頑なに兄から離れようとしなかった。

私が生きてこれたのは、兄のおかげだと思う・・。

兄は精神的な《父親の役目》をした。5歳離れた兄は賢く頼もしかった。成績も運動も優秀で、優しい兄は‥私の憧れだった。

兄は13歳・中学1年生

私は8歳・小学2年生

悲しい春の始まりでした。今でも春は胸が苦しくなることが多く、孤独と不安が蘇る季節。。

ーー佐賀の叔父さんが父に仕事を紹介してくれた。

父は魚屋だった。手に職がある為、働き口はすぐ見つかった。他人任せで動くのは父の癖だ。

父は41歳。 

「父ちゃんは、すぐ死ぬよ。長生きできんけん。」

大酒飲みでヘビースモーカー。ギャンブルと飲み屋に行ってベロベロに酔っ払うのが日課だ。

幼い私は、父の言う事を間に受けて

何度も真剣に涙した。『ウッ…ウッ ウッ…。』

『お父さん・・・死なないで。長生きしてよ。』

週に3〜4日は、酔って帰ってこない。兄は中学生で部活で遅くなる。私は1人でお留守番をする。

親戚の家は居心地が悪く、父の職が決まり次第アパートを見つけ、引っ越した。父も居心地が悪かったのだろう。

ボロアパートの暗い部屋で 私は帰ってこない父をなれない手料理を作って待っていた‥。

時には食費を置いてない日があり、近所のクリーニング屋さんに「お金か食べ物をかしてください。」と1人で頭を下げに行った。

その経験もあり、成人してからはどんな仕事も怖くなかった。飛び込み営業も、水商売も平気。

9歳の私の方が よっぽどこわかった。

情けない父のおかげで、私は人より早く自立できた。精神的に大人になれた。ちょっと生意気な子だったかもしれない・・人を下に見ていた。

尊敬できない父といると 人を馬鹿にしてしまうのだ。自然にスレてしまう。そうやって心のバランスを取っている。近所に泣いて同情してくれる人もいた、でも私は何も心が動かなかった。

グレなくてすんだのは、「兄」がいたから。

兄は同じ環境でも人気者で成績優秀✨友達も恋人もいた。逆境にくじけず前を向いてる人だった。

兄「ヒカリ、高校には行けよ。俺が高校ぐらい何とかする。大学を辞めても、働いてヒカリを高校には行かせる。父親がどうなっても大丈夫。」

兄は希望の光だった。

嫌われたくなくて、良い子でいることを心がけた。

大嫌いだと思っていた父を、大切にした。

それは大人になってた今も、父をサポートし、できるかぎり助けている。

〜現在〜

酒の飲み過ぎとタバコの吸い過ぎで

今は肝臓を壊し、一生 病院のベッドの上。

酸素マスクがないと生きていけない。

それでも死なないと、呪縛から逃れられない。

《早くいなくなってくれ》と兄妹そろってそう言っている。あんなに優しい兄にそう言わせる 父はどうしようもない呆れた人だ。

こうして今も苦しんでいる。。。

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