時は中世ヨーロッパ、荘園と修道院にてチーズのスターたちが誕生。(文化の読書会:キンステッド『チーズと文明』(6)「荘園と修道院 チーズ多様化の時代」)
Cheese and Culture: A History of Cheese and its Place in Western Civilization
By Paul Kindstedt
日本語訳はこちら。
今回は第6章「The Manor, the Monastery, and the Age of Cheese Diversification(荘園と修道院 チーズ多様化の時代)」を読んでいきます。
読書メモ
ローマによる植民と荘園の誕生
ローマの軍事拠点では、土地は食糧生産にも利用され、土地が広げられた
兵士たちも田畑を耕し、北アルプスでは牧畜も行われた
;特に羊は羊毛とチーズを生み出すので多く飼われた
軍事ロジスティクス担当官はチーズ作りに必要な器具をイタリアから持ってきた
こうしてチーズ生産量は倍増していく
また、軍事拠点では、食糧の自力生産の他、貴族のヴィラから地場の食糧の供給を受けていた
紀元前1世紀頃
ローマ帝国の拡大が終了し、奴隷の流入が減る
→ヴィラは労働不足に陥る
→土地を小分けにして、地元の小さな自作農に渡す
※これらの自作農には多く元ケルト族がいた
4世紀頃
ローマ帝国では、帝国機能と同様、農業システムも動揺していく
自作農は高すぎる税金を払えなくなってくる
都市では暴動も起こり、土地持ちの貴族たちは他の土地にいくか、田舎のヴィラに引っ越す
;城壁付きのヴィラがこの時期のヴィラの特徴
大農場ヴィラから荘園へ
ローマ帝国が崩壊すると、ヴィラは自治的になる
5世紀のゲルマン人の侵攻以降も、貴族によるヴィラ体制は残る
ゲルマン人の支配体制とローマ時代のヴィラの社会構造の融合で、中世の荘園が発展
荘園は、農民の土地と所有者の領地から成る
:農民の土地は半分から3/4で、農民は税として作物を納める
:領地は1/4から半分で、木地や家畜用の土地も含まれていた
7世紀頃から、修道院が貴族から荘園の寄進を受けるようになる
修道院と荘園がヨーロッパにおけるチーズの発展の基盤となる
修道院の繁栄
ローマ帝国崩壊後、後ろ盾を失ってキリスト教の権威が弱まった時期もあったが、フランク王国下の保護やケルト族への広まり、ベネディクト派の躍進もあり、キリスト教は力を取り戻していく
7-8世紀にはベネディクト派修道院がヨーロッパ中に広まる
;数も増え、富も蓄積していく
シトー派の改革と大開墾がすすむ
ベネディクト派とシトー派のビジネスセンスとマネジメント力が中世ヨーロッパおよびヨーロッパのチーズを発展させていく
荘園と修道院のチーズ作り
<ソフトな熟成チーズSoft- Ripened Cheeses>
北西ヨーロッパの典型的な荘園で発展していく
フランスでは、Livarot、Pont-L’Evêque、Brie、Neufchâtelなどの牛のチーズや、 Crottin、Saint Maureなどのヤギのチーズの原型が生まれてくる
大量のチーズ用乳を確保できる荘園においてチーズ作りが発達する
ミルクを絞ったり、チーズ作りを行うのは女性の仕事だった
チーズを作り始める前に経過した時間、凝乳に使うレンネットの量、凝乳時のミルクの温度によって、異なるチーズができる
<白かびチーズBloomy-Rind Cheeses>
保有する牛の数が多くない農民たちは、何度かに分けてしぼったミルクを使い、29℃程度に温めてレネットを加え、高湿の場所で高酸度のチーズを保管することでできる
荘園で発達したかどうかは不明
<酸レネット凝固チーズAcid/Rennet-Coagulated (Lactic) Cheeses>
24時間程度の時間をかけて、21℃くらいの低温で、低量のレネットを使って高酸度のチーズを作る
西フランスで盛んで、ヤギの乳を使ったCrottinやSaint Maureなどのチーズにその技術が使われている
<ウォッシュチーズWashed-Rind Cheeses>
「修道院のチーズ」とも言われる
大量の乳を使い、低温で高湿の均質な環境で熟成させ、塩水の布などで日々吹き上げるようにして菌を表面につけていく
シャルルマーニュも絶賛
10世紀頃バイキングの侵攻と共に荘園の所有地が消滅していく
→小さな農民たちが受け継ぐ
→北フランスでは農民のソフトな熟成チーズが発展
イングランドの荘園チーズ
北フランスやイングランドの荘園領地では牧羊が栄える
フランドルはローマ時代にはウール繊維業で有名になる
;ウールは羊のチーズ作りとセット
イングランドでは、ローマ帝国の兵士を養うためにローマからチーズ作りの技術がもたらされ、チーズ作りの基礎が築かれる
ケルト族のチーズ作りも影響
領地のチーズは賃借料や王への税の支払いに使われる通貨になる
中世初期には、アングロサクソン荘園で、農民の女性はチーズ作りのプロとしての役割を果たしていた
領地ではバターも所有者に納める必要があった
;バターはチーズ作りの過程でできるホエイからできる
羊のホエイからバターは作りにくいので、貴重な贅沢品であった
1066年ノルマン朝の征服
=市場向けの領地のチーズ生産の新しい時代
ノルマンディーの修道院がチーズ輸出を切り拓く
フランドルはイングランド産のウールを仕入れ、繊維を中央ヨーロッパに売る貿易で栄える
→都市の発展と人口増加
→食糧供給不足
→フランドル貴族による土地の開拓
&
食糧輸入にお金が必要なので繊維生産増加し輸出強化
→イングランドにおけるウール生産、牧羊の需要増加
→羊のチーズ生産も発展、市場向けに輸出
こうして12−13世紀のイングランドでは市場向けチーズ生産が発展
北フランスでは荘園領地が崩壊して農民による小規模生産に移る一方で、
イングランドでは大規模な管理農業で経済合理的な経営が行われるようになる
13世紀頃
チーズ作りは牛により行われ、ウール作りは羊により行われるように分化
→15世紀末にはイングランドのほとんどの羊のチーズは消滅、牛のチーズへ移行
<13世紀末のイングランドの3つの農業書>
・Seneschaucy
チーズの大きさの管理が重要な問題になり、
シリンダー型のチーズ型から薄い輪のチーズ型に移行
・Walter of Henley
ミルクの量あたりのチーズとバター生産の最適化
・Husbandry
経済利益を最大化
チーズとバターの経済がイングランドのチーズ生産の発展を牽引
羊のチーズから牛のチーズへ
;1270年前後の疫病により牧羊に打撃
;フランスとの100年戦争により、ウールの輸出に打撃
;1430、40年代の湿った気候により別の羊の疫病流行
;1348年から50年までのペストによる労働不足
→資本家の自由農民へ土地が集約
人口の都市への流出による大都市でのチーズ需要の高まり
以降、イングランドの自由農民チーズの発展へ
山で作られるチーズ
ローマ帝国以前にすでに中央ヨーロッパではチーズが作られていた
<Saint Gallのベネディクト派の修道院>
中世初期にはアルプスでのチーズ作りについて能書きが残されている
チーズ作りの知見は以前この地に住んでいた農民や農奴から受け継がれたものと考えられる
9世紀には土地を広げ、チーズ生産者ではなく、運営側に回り、文化センターのような役割を果たしていく
10世紀には寄進と開墾でさらに土地を広げ、チーズ作りの知見も広まっていった
<St.Martin修道院>
トランスマンツァとアルプスのチーズ作りで、修道院の周りの未開墾の土地を開拓
;「スタートアップ・パッケージ」の奨励プログラムが功を奏す
西スイスのフランス国境付近まで
; GruyèreとEmmentalが誕生
アルペンチーズの名声が高まるにつれて、市場向けチーズ作りが行われるようになる
;Gruyèreは11世紀に神聖ローマ帝国のお墨付きを得てから取引が拡大し、14世紀には大量に輸出されるようになる
BernはGruyèreの成功を見て、Gruyèreからチーズ生産者をリクルートして、エメンタールでチーズ生産を始めた
オーストリアとドイツの貴族たちもアルペンチーズに目をつけて、生産を奨励していった
中世の終わりには、アルペンチーズ(中ー大サイズで、輪の形をして、硬めで、頑丈で、長持ちする)はアルプス一帯で作られるようになっていた
;アルペンチーズの共通の特徴は「トランスマンツァ」
アルペンチーズの課題は、遅い酸化、大きなサイズ、控えめな塩の使い方により日持ちのする低湿度のチーズを作るのが難しいことであった
そのため、長い時間をかけて乾燥させたチーズを作るようになり、これが技術革新を生んでいく
この技術は、オーストリア、スイス、イタリア、フランス、ピレニーとアルプス一帯に同様に羊のチーズ作りとして広まり、弾力性のある、穴の空いた「ナッティ」と表現される風味を持つチーズを生み出していった
一方、カンタル山のチーズは、アルプスと異なるチーズを生み出した
ローマ時代からローマへ輸出されていて、中世にはより商業的に生産されていく
アルプスの地帯に比べ塩を入手するルートがあったので塩をたくさん使う製法が可能であった
Ex. ロックフォールRoquefort
ベネディクト派やシトー派の修道院と結びついて重要なチーズになった
洞窟の最適な環境下で熟成される
パルミジャーノ・レッジャーノとグラナ・パダーノ
中世のポー地帯で生まれたイタリアで最も有名なチーズの1つ
ポー地帯は水はけの悪い湿地帯だったが、ベネディクト派によって開墾が行われ、12世紀にはシトー派も加わり、耕作可能な土地になっていった
こうして12−13世紀には乳牛の牧畜が可能になり、伝統的な羊の牧畜から牛の牧畜に変わっていった
14世紀にはパルミジャーノの記述が始まり、広く需要があったことが知れる
ベネディクト派とシトー派は開墾により広大な土地での乳牛の牧畜ができるようになり、これが大きなグラナチーズの生産を可能にした
彼らが持っていた技術や器具はアルペンチーズのそれと似通っていた
;修道院どうしでは交流があり、アルプスから修道士たちが重要なチーズ作りの基礎を持ち帰ってきた
ポー地帯では、ベネチアルートで塩が入ってきたので、大きなチーズが作れた
大きなチーズはポー川を伝ってベネチアに行き、交易拠点のベネチアから各地に運ばれた
感想
荘園体制での大規模生産、修道院の貢献、フランスのチーズの勃興、我らがチーズの王様パルミジャーノの登場、と、チーズの歴史が動いていく章で、大変興味深かった。
中世は「暗黒の中世」などとも呼ばれ、変化に乏しく何やってたか分からないイメージがあるが、文化的には、食の歴史家からすると重要極まりない時代である。中でも修道院の果たした役割は計り知れず(開墾、宗教的規律を踏まえた体系的な食事の確立、最先端技術センター、離れた地点間の交流、巡礼者と客を通じた文化交流、Etc)、チーズの発達にもその影響が如実に見て取れるのが面白い。
もう一つ、個人的には中世の女性の役割を料理文化から見る研究も試みたいアプローチのストックに入れた。今回の章にも、中世初期のアングロサクソン荘園でチーズ作りのプロとして働く農民の女性がいたり、搾乳やチーズ作りは女性の役割であったり。ちょうど先日、上級イタリア料理講座で「修道院の料理」をテーマに扱ったが、実は薬草学やシチリアの郷土菓子などは中世の修道女が起源となったものが多い。
中世の女性史を見る上では文献の数が少ない(Unvoiced)ことが課題であるが、中世チーズ作りに見て取れる女性像を繋ぎ合わせてアプローチするのも手だと思う。そして、こうした料理を通した女性史は、政治などを中心に語るフェミニストたちの女性学に対して、新しい風を吹かせることができるのではないかと思ったりする。
次回は、時代の波に飲み込まれていくチーズがどうなるのか、楽しみにしている。
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