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『死にあるき』考察(2):朱鷺子の死生観

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見やすくなったかと思われるので、よければ
了子『死にあるき』ネタバレ考察2:夏生の事故にみる朱鷺子の死生観

前回と同様、ネタバレを含みます。
書く書く言ってだいぶ時間が経ってしまった…。

引き続き、漫画「死にあるき」の主人公、朱鷺子について。
おもに朱鷺子の「死生観」に関する考察です。

家族が、友人が死んでなぜ朱鷺子は泣かないのか。

2020年9月9日の夜にデニーズでひとり綴ったメモをまとめます。

ただの肉体か、人格を持つ物体か

夏生の事故後、朱鷺子が放った「死体とは友達になれない」という言葉から推測するに、朱鷺子は「死者」という概念を持っていない

ここで朱鷺子のことはいったん置きます。
まず「死者」とは何者なのかについて。

「死者」とは、死とともに誕生する人間特有の考え方。

似ている言葉に「死体(屍体)」、または「死骸」があります。
朱鷺子が友達になれないと言ったのは「死体」

「死体」と「死者」は字面こそ似ていても、その意味は異なる。
このちょっとした違いが朱鷺子の死生観への理解に繋がるのではと考えました。

・個人的な悲しみを向けられない「死体」
一般的に、道端で死んでいる動物は「死体(屍体)」とみなされますよね。

「死体」の定義は以下の通り。

死んだ人間・動物のからだ。生命の絶えた肉体。死骸。しかばね。「白骨―」「―遺棄」
[補説]「死体」「死骸」「しかばね」には肉体を物としてみている語感があり、人格を認めた表現にはふつう「遺体」「遺骸」「なきがら」などを用いる。(goo辞書より引用)

死体を見て「可哀想」「ひどい」と思っても、葬式まで行う人は少ない。
上記で述べた通り、「人格が認められない」から。

飼っている動物であれば、きっと「死体」とは呼ばない。

道で轢かれた動物に向ける感情と、飼っていたペットに向ける感情。
当たり前に思われるかもしれないけれど、違う。

親しい「人間」であればなおのこと。

「人格が認められるか」は、残された人々が「ただの肉体に関心(特に悲しみ)を向けられるかどうか」に言い換えられるのではないでしょうか。

だからこそ、「死者」は人間特有の概念であると考えます。

「生者」と「遺体」。死とともに誕生する「死者」

「死者」は「生者」と「遺体」とを繋ぐ、そのあいだにある概念。

「生者」、そして「死者」と「遺体」はゆるやかに繋がっているイメージ

生か、死かのように二分するのでなく、生が終わる瞬間生まれる死の前段階、ワンクッションとしてある「死者」

・残された者に寄り添う「死者」
たとえば49日。
その期間は魂がこの世とあの世をさまよい、行先が決まっていないという考えです。

一ヶ月と少しの時間をかけて、残された人々が感情を処理するための時間とも捉えられます。

この期間は「生者」でも「遺体」でも、ましてや「死体」でもない。
流れるのは「死者」としての時間

・「死者」の魂
・「死者」を弔う

故人が生きているように、ただその場にいないだけ、というような扱われ方をします。

けれど、生きているかのように扱うのは実際難しい。
ことわざに「死人に口なし」というものがあるけれど、死者は意思表示ができない(から無実の罪を被せたりしてはいけない、のがことわざの元々の意)から、周囲の人間が代弁者となる

・いつ「死者」から「遺体」に変わるのか
「死者」から「遺体」に認識が変わるタイミングは様々で、火葬をした後、埋葬した後、49日を終えた後、そもそも遺体に認識が切り替わらないかもしれませんし、両方がごちゃ混ぜになっている場合もあるでしょう。

共通しているのは「関心を向け続けているか」
どうか。

対して「死体」は突然目の前に現れるイメージ。


個人的な悲しみを向けるほどの繋がりはなく、ただの物体として私たちの目の前に現れる。

朱鷺子の死生観

朱鷺子には「死者」と「遺体」の概念がなく、あるのは二分された「生者」と「死体」。

朱鷺子にとっては、死は突然、いつでも誰にでも訪れるもの。
「生者」が瞬間、「死体」へと変わる。

夏生の事故の瞬間をみるとわかりやすい。

そこに大切な人の魂が宿る肉体はない。
意思を持って行動しない肉体は、ただの肉の塊。

だから「死体と友達になれない」。

朱鷺子にとって、死が終わる瞬間に生まれる「死者」はいない。

朱鷺子は亡くなった人へ関心を向け続けることなく、また、故人の意思を代弁することもなく(生前ならこう思ったはずだ、という推測は別として)、「死」という事実をありのまま受け入れた。

きっと朱鷺子にとって「死者」がいないがゆえの発言、行動だった。

「大切な人が死んだのに自分を憐れんで涙を流すなんて、私はあまりしたくない。」(『死にあるき』第3話25ページより引用)

常に死を肯定している朱鷺子だからこそ、「死者」の存在は必要なかった。
大切な人の死を美化したり貶めることなく、その人がどう生きたかに目を向けた。


朱鷺子のこの感情に共感できるか?は別として。

寄り添う「死者」が彼女にとっていないのであれば、理解は難しくない。

まだまだ書きたいけれど、ここで一区切り。

つぎ『死にあるき』について書くとすれば美雪姉さんとのことかな。
養父のほかにただひとり、家族として朱鷺子に向き合った人物なので、たくさん書けそう。

そういえば『死にあるき』作者である了子さんの新しい作品『ウソツキ皐月は死が視える』も「死」を扱っている。

同じ「死」を扱っているのに、皐月には朱鷺子にはない主体性がある(※朱鷺子の主体性のなさは前回で言及)。
反対に共感力が低いところは朱鷺子と似ている。

社会でおかしい人間として扱われることよりも、自身の考えや感情を優先できる強さ。
その印象で見えづらいけれど、「今日死ぬ」と言われたその人間がどう感じるか配慮ができない(焦りでそれどころじゃないのかもしれないが)。

もちろん読み進めて行くうちに印象が変わるかもしれないけれど。

次は『自転車屋さんの高橋くん』について書く!
漫画シリーズ、細々と続けていきたい。

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