プロ野球賢者の書②【「鉄腕」が指導者になった時】

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稲尾和久『神様、仏様、稲尾様』

90年近い日本プロ野球の歴史で「神様」は何人かいた。
もっとも有名なのは「打撃の神様」川上哲治だろう。しかし「神様」「仏様」と並べられた選手は稲尾和久ただひとり。
西鉄ライオンズ黄金期のエースとして通算276勝137敗、日本シリーズ4連投4連勝(1958年)、シーズン42勝(1961年)を筆頭に超人的記録と鮮烈な記憶を残した。

もちろん、私はリアルタイムで投げっぷりを知らない世代だから、ホークス戦中継の解説や九州に行った際に見られた「今日感テレビ」の印象だけ。
恐るべき実績、「鉄腕」「神様仏様稲尾様」から刺々しい雰囲気を想像していたが全く違い、穏やかで丁寧な話し方に驚いた。
実績をひけらかすことはせず「松中のような打者にはボール半個を動かすコントロールが必要。しかも内角に強いわけだからよくよく逆算して投げること」など投手目線の的確な指摘が多かった。

投手としての活躍ぶりは今さら取り上げるまでもないのでここではあえて監督、コーチ時代を自伝『神様、仏様、稲尾様 私の履歴書』(日経ビジネス人文庫)の記述から拾ってみる。
稲尾和久は現役時代の兼任コーチを除くと1970年~1974年に西鉄ライオンズ・太平洋クラブライオンズ、1984年~1986年にロッテオリオンズの監督、その間の1978年~1980年に中日ドラゴンズの投手コーチを務めた。

「青年監督」で味わった屈辱

最初のライオンズ監督時代は文字通り地獄を見た。いわゆる「黒い霧事件」による八百長選手の追放で投手陣が崩壊状態のチームの監督を事実上押し付けられたのだ。
しかも、32歳で現役引退直後の話。近年のジャイアンツ高橋由伸の上をいく無理筋であり、当然成績は振るわない。3年連続勝率3割台の最下位、特に2年目の1971年は年間38勝とかつて稲尾自身がシーズンに1人であげた勝ち星にすら届かない屈辱を味わう。
当時の苦境と意外な人物からの助力をこう明かす。

監督一年目は若い私の補佐役としてヘッドコーチに関口さんを招いた。阪急に移籍後、そのままコーチを務めていたのを、西本幸雄監督を西宮の自宅に訪ね、移籍の許しをいただいた。バッテリーの面倒をみてくれたのはかつての女房役、和田さん。それぞれ必死にチームを支えてくれたが、もう西鉄にはかつての栄光のかけらもなかった。
失意の私を励ましてくれたひとがいた。それがシリーズで三たび対戦した川上さんである。巨人を率い、V9の六年目を終えたところだった。
食事の席で「僕は監督としての能力があるかどうかわかりませんが、今は恩返しのつもりでやっています。プロといえるチームになったらいつでもやめるつもりです」とキザなことを言った。すると「ばかやろう。おまえがそんなことで一人前のチームになるわけがないだろう。優勝しよう、日本一になるんだと思う監督でなくて選手が育つわけがないじゃないか。格好つけるんじゃない」。

苦境の中、稲尾は若い投手を鍛えようと決意、狙いを定めたのが後にエースとなる東尾修だった。

(1970年の)最終戦だったと記憶する。来季につながる投球を期待し、私は若手三人に3回ずつ投げさせた。一人は河原、もう一人は宮崎・延岡商からこの年に入団した柳田豊投手、そして東尾だ。その期待の三人がいずれもぼろぼろのピッチングだ。消化試合の気分で、気合が抜けているのである。優勝チームならいざ知らず、これから一つでも階段を上がらなければいけない我々に、消化試合などあるはずがない。宿舎の部屋に三人を呼んだ。
「これからお前たちが育ってくれなくてはいけないんだ。一試合でも大事に投げなくてはいけないんだ。それを何だ」
平手で全員を殴った。その時、一人反抗したのが東尾である。私をものすごい形相でにらみつけ、「なんで殴るんですか」と刃向かってきた。この男は見所がある、と思った。

プロ野球ではシーズン後半になると下位チームに関して「消化試合」という言葉がしばしば使われるが、稲尾の言葉はそれに疑問を投げかけるもの。
「消化試合」は優勝が決まったチームの残り試合に言えることで他のチームは一試合一試合が来季への足掛かりだというある意味正論。実際のところはそう気持ちで臨める選手は少ないだろうし、プレッシャーのかからない状況でどれだけのものが身につくかは難しい点ではある。

ともかく稲尾は東尾をどんどん起用し、試合で鍛えた。1972年には18勝した一方でシーズン最多の25敗を喫したが次第に成長していく。
しかし、同年オフに西鉄は球団を手放し、太平洋クラブがスポンサーとなる体制に移行。
稲尾は留任してさらに2シーズン監督を務め、上向きになりかけたが、最後は東尾と社会人出身で即戦力となった加藤初のトレードを巡ってフロントと対立して更迭された。

西鉄の監督時代を振り返る時、やはり自分の未熟さを挙げないわけにはいかない。何しろ三十二歳。しかも野球以外のことを全く知らずに、監督になった。私が入団した時に四十四歳だった三原監督に感じた「大人」を、私に感じる選手は少なかったことだろう。

「燃える男・星野」の実像

失意のうちにユニフォームを脱いだ稲尾。
3シーズン解説者生活を送り、1977年のオフに中日ドラゴンズから投手コーチの要請を受けて就任する。
この時は276勝投手の威光を示すこともなく、練習にユニークなアイデアを持ち込んで注目された。

球団の中川清代表から「ウチは飲んべえが多いから気をつけてくれ」といわれていた私は就任早々、一計を講じた。紀伊勝浦での自主トレ初日の前夜。スナックを貸切にして「今日は好きなだけ飲め」といい、みんなにガンガン飲ませた。へべれけになって寝たのを確認して次の日、仲居さんに頼んで七時にたたき起こしてもらった。「ランニングだぞ」。
練習は軽いものと思い込んでいた投手たちは早々にグロッキーだ。次に日に持ち込む酒がどんなに悪いか、身をもって体験させたのである。
まず全員の体力、技術、性格を把握する必要があった。体力、技術は一週間もあればわかるが、性格は難しい。酒を飲ませて様子をみたのにはその性格を把握するためという目的もあった。さらに私はもうひとつの試験をしてみた。
パチンコテストである。同じ数の球を持たせて一時間という時間を区切って、様子を見る。五分で全部なくしてしまう人、一時間持たせようと一個ずつ箱から取り出しては打つ人、これも性格が出る。
一個ずつ丁寧にというタイプは気力が長持ちするので先発、五分でぱあっというタイプはむらっ気はあるが、度胸がいいので抑え向き、などと一応の目安にはなる。監督という一段高いところから降り、近い距離から選手をみていると、いろいろな性格があるのだと実感するようになった。

投手陣で最も稲尾の心に残ったのは当時のエース星野仙一だった。

特に面白かったのは星野だ。気持ちで投げる投手がいるというのを、彼と接して初めて知った。ウォーミングアップを見ていると、とても怖くて投げさせられないという気持ちになる。球がおじぎしている。ところが試合になると別人だ。特に巨人戦はすごい。自分で自分の頬にビシっとびんたを食らわせ、「イテッ」といってマウンドに向かう。そしてブルペンでは考えられなかったような球をびしびし投げる。ほかのカードでもこの気合が出せれば本当にすごい投手なのにと、もったいなく思えるほどだった。

こんなこともあったらしい。
ある時交代を命じると稲尾の前では納得の表情だったのにベンチに帰るといきなり激高、グラブを叩きつけてみせた。
悪いことにリリーフが打たれて観客からはヤジの嵐。翌日、稲尾が星野に真意を質すと返事は・・・。

「稲尾さんはまだ名古屋にきたばかりで知らんでしょうが、私は燃える男といわれとるんです。どんな状況でも弱気なところは見せられんのです」

他にも松本幸行や三沢淳などの個性派と向き合った稲尾はこう語る。

今の投手はもう一人投げさせてください、という執着がない。代われというとさっさとベンチに戻る。素直といえば素直だが頼りない。星野らのような骨っぽくて、芝居っ気もあるというタイプがもっと出てきていいだろう。

「オレ流」「マサカリ」と組む

中日コーチを辞した後、稲尾は1979年にライオンズが去った福岡に再び球団を誘致する構想に関わった。これに絡んでロッテが監督就任を要請、稲尾は福岡移転計画推進を条件に受諾した。
結局移転構想は実現せず、稲尾は契約延長を断って3シーズンで退陣するが実績、個性の両面で際立つ落合博満、村田兆治の2選手とうまく向き合い、一定の成果を収めた。
落合とは監督就任直後に交わした会話が面白い。

落合がすっと隣に寄ってきた。
「一つ聞きたいことがあるんですが、監督は管理野球ですか、それとも選手に任せるんですか」
選手の身でいきなり”施政方針”を尋ねてくるなど人によってはそれだけでバツ印をつけそうだが、落合には何となく憎めないところがあった。私もその辺ははっきりしておいた方がいいと思った。
「管理野球って、何だ」
そもそも野球など、一つのフレーズでくくれるほど単純なものではないから、一応確かめてみる。
「(西武の)広岡さんがやっている管理野球です」
「残念ながら、オレは西鉄ライオンズで育ったものだから、管理されたことはないんだよ。管理されたことがない者が管理する。これは難しい。だからオレは管理しないよ」
「わかりました」と安心したように言って、落合が席を去ろうとするのを呼び止めた。
「ちょっと待て。オレもおまえに聞きたいことがある。これに勝てば優勝という試合で、九回裏ノーアウト一塁、1点取ればサヨナラの場面だ。そこでおまえが打席に立ったら、どうする」
「そりゃあ、バントでしょう」。
こともなげに落合は即答した。
「おまえ、四番やぞ」と重ねて問いただしたが「1点取りゃあ勝ちなんですから、バントです」と答えは変わらない。

稲尾監督とウマが合った落合は、エンジンのかかりが遅いことを批判されつつも2年連続三冠王に輝いた。
また後年、中日ドラゴンズの監督に就き、猛練習に独特の合理性を絡めるスタイルで成功した落合だが、その野球観の一端は上記のやり取りに表れている。

一方、1983年に当時まだ一般的ではなかった肘のトミー・ジョン手術を受け、約2年のリハビリを乗り越えてカムバックした村田兆治に稲尾は熱い思いを託した。

私はこの男に一つの夢を託した。
投げ過ぎと故障。これは投手の永遠の課題だ。アメリカでは先発は中四日で、一試合100球をめどに交代する。完封でもかかっていないとまず、予定の球数に達したところで降板だ。しかし、サラリーマンが日々のルーティンをこなすような野球が面白いだろうか。故障を防ぐにはこれが一番で、日本が追随しているのも当然かもしれない。しかし、プロとしてお金を取って見せる野球がそれでいいのか。限界に挑戦する姿、とても常人にはできないという技術、体力、精神力の発露。それが無くてなんのプロだろうと私は思う。
今はコーチ、選手とも故障を恐れるあまり、投げさせないし、投げたがらない。このため多くの投手が本当の制球力を持たぬまま、マウンドに上がり、荒っぽい試合ばかりとなる。
では、故障を恐れぬようにさせるにはどうすればいいのか。故障をしても、また投げられるようになるんだということを実証する投手が出てきて欲しい、というのが私の願いだった。
シーズン開幕を前に私は村田に言った。
「おまえの腕で、故障しても再生できるんだということを証明してくれないか。おまえだけの問題じゃない。プロ野球のすべてのピッチャーに、こうやればできるんだと見せてやってくれ」

本格復帰した1985年のシーズン、村田兆治は17勝5敗の好成績。稲尾監督退陣後も勝ち星を伸ばし、1990年の引退までに通算215勝。現役最終年の1990年8月24日に600試合登板を達成し完封勝利で飾った。

162試合を中4日のローテーションで回し、時差のある移動やダブルヘッダーのある大リーグなら「6回100球3失点、ご苦労さん」は分かるが、日本は少なくとも5日はあけるし、大体は中6日だろう。
それで5回、6回でアップアップでは稲尾の書くようにファンとしては正直ガッカリする。
2021年から読売ジャイアンツの1軍チーフ投手コーチ補佐に就任した桑田真澄も「投げ過ぎはいけないが現在の日本は投げなさ過ぎ」と指摘、135球完投を目標にと述べていた。
リリーフ投手の地位向上は喜ばしいし、打者の練習環境が格段に良くなった事情を考慮すれば、目先を変える継投は必要かもしれないが、もう一度先発完投が見直されることを願う。

伝説の名投手 引退後の苦闘

投手として日本プロ野球史上最多139の勝ち越しを達成した稲尾だが、監督時代の通算成績は431勝545敗64分に終わり、優勝とは縁がなかった。

こんなことをいうとまた川上さんに《甘い》としかられそうだが、私の監督生活は、選手が育ってきて、さあこれからというところでおしまいとなる。一度、本当に勝負をかけられるチームを指揮してみたかった、という気持ちがないといえば嘘になる。ドラフトのくじ運も悪く、現役時代に持てる運をすべて使い果たしたのだと自分をなぐさめたりもする。

と偽らざる本音を記している。
「私の履歴書」を通して読むとやはりテレビで接した温顔に重なる要素が感じられ、そのあたりがもう一つ監督として成功できなかった理由だと思う。
使い古された言い回しだが選手と監督に求められる適性は別。従って現役時代の華々しい実績と人気を持つ元選手をファームにおける指導者修業なしに監督起用するのは考えもの。
かつて森祇晶は「人気で客を呼べるのはせいぜいオープン戦まで。勝てないとみんな手のひらを返したように冷たくなる」と言い、「人気者監督」を作りたがる風潮を牽制した。

もちろんホークスの工藤公康監督のように本人の研鑽と球団のバックアップがあれば解説者からいきなり監督でも成功しうるが、これはあくまでレアケースと心得、ステップバイステップの正攻法が王道だと球団フロント、メディア、ファンのそれぞれが頭に置く必要がある。

※文中敬称略

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