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金木犀の記憶

「日曜日か……」

 カレンダーの赤字を見てぼやいた。九月の第四週。あと数日でこのページもお役ごめんだ。
 あくび混じりにだらだらと着替える。そろそろ冬服を出さないと寒いかもしれない。薄手の上着に袖を通しながら、クローゼットに目をやる。

「めんどくさいな」

 今度はため息まで混じった。
 けだるい身体を引きずって、一人暮らしの家を出る。「いってきます」を言う相手もいない生活は、普段から静かな僕をさらに無言にさせていた。時折意図して声を出さなければ一日中声を発しないこともあり得てしまう。

「いってきます」

 朝六時の住宅街はとても静かだ。このあたりは昭和の雰囲気がする古びた家が多い。フライパンがカンと鳴る。蛇口をキュッとひねる。住人たちのとても控えめな生活音だけが響く路地。二年前に引っ越してきた僕は、今ではここでの生活がとても愛おしい。薄い朝日が差す道は少し肌寒いが、冷えた空気がそわっと肌を撫でる感覚は静かな優しさのようで心地よかった。

「あ」

 ふわっと甘い香りが通りすぎた。鼻をくすぐるどこか懐かしい感覚。

「キンモクセイ」

 どこの家からだろう。そういえば去年もこのあたりを歩くと嬉しい気持ちになっていた。立ち止まってあたりを見ても、金木犀は見あたらない。僕はその場に立ちんぼになって、思わず目を閉じた。記憶をくすぐるような香りを楽しむように。

「もう、そんな季節か」

 金木犀はどこでも香る。
 あの日、誰かと一緒に通った道の金木犀。僕よりも先に気づいた誰か。毎年、同じ時期に思い出してしまう誰か。一時期は僕と愛し合っていた誰か。
 思い出すのは、二人の愛を祝福するように香った金木犀の記憶。「ん! ね、金木犀だよ!」と言って笑った誰かの声は、今もクリアに僕の胸に響いてくる。そのたび僕は泣きそうになる。
 水彩画のような、甘美な記憶。

「ふー……」

 深く息を吐く。記憶がぼんやりとにじんで、思考の中に消えていく。
 二秒ほど余韻に浸った後、一言で回想を終わらせる。

「秋だな」

 まったくわざとらしいと思いながら、僕はまた歩き出す。もう、金木犀の香りはしない。鼻をすんすん鳴らしても夢のような思い出は戻ってこない。

「あ」

 ふと腕時計を見ると七時になろうとしていた。今日の予定は七時半の待ち合わせから始まるのに、このままでは遅れてしまう。

「急ごう」

 好きな人のところに。僕が着いた頃、おそらく彼女はまだ来ていないだろうけれど。
 そうだ、散歩を提案してみよう。今日は涼しいし、きっと気持ちよいはずだ。もしかしたらまた、香るかもしれない金木犀。

「あ、キンモクセイのにおいがしたよ」

 そう言って、僕が先に気づいて教えてあげたい。

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