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石畑由紀子『エゾシカ/ジビエ』(六花書林)

 第一歌集。2011年から2022年までの387首を収める。北海道の自然や動植物、祖父を始めとする家族、周囲の人々、親しいきみ、そして自己を、具体を豊富に取り入れながら詠う。病の歌もあるが、全般を通して心の伸びやかさを感じる。湿ったところが無いのだ。同時に心の奥底の激しい感情も、抑制の利いた形で伝わってくる。

Iという単語を愛すIという幹に似ている一人称を
 英語の一人称の「I」。日本語と違って主語を必ず置く英語では最も頻繁に目にする語の一つだろう。その「I」を愛すという主体。「I」の字は真っ直ぐで木の幹に似ている。そのように自分もありたい。私、という屈折のある人称よりも、真っ直ぐ健やかに「I」と名乗りたいのだ。

水鳥の羽裏のしろさ平気よという顔をしてきみに手をふる
 もちろん、平気ではない。しかし平気よ、という顔を君には向ける。心配をかけたくないからか、弱みを見せたくないからか。水鳥が羽ばたく時に見せる羽裏の白さのように、繊細でありながら毅然としていたい。どこかで君が平気でない心に気づいてくれるのを待っているのかもしれない。

ヒンドゥーとイスラム交互に手際よく削いだケバブをほおばる 晴天
 JICAのイベントに参加した一連から。おいしいものを食べ、歌ったり踊ったりしている時、宗教は関係無い。晴天のもと、薄く削いだケバブを頬張っている時、互いの宗教について意識したりしないのだ。ここにもちろん、キリスト教徒も仏教徒もいるだろう。それが何?と思わせる一連だ。

ありがとう そこではなくてでもそこをずっと撫でてくれてありがとう
 「そこ」は痛いところでは無いのだけれど。撫でてもらってもツボが外れているのだけれど。でもありがとう。ずっと撫でてくれて。その気持ちがうれしい。痛みが去らなくても、苦しい気持ちが減らなくても、撫でてくれたことが主体の次の一歩への力となるのだ。

くるだろう諦念はあかく下手から愛憎はあおく奈落から、くる
 別れの場面を描いた一連と取った。お互いに痛いところに触れないように接している。けれども主体は知っている。やがて諦念が、そして今は感じていない愛憎が自分に向かってやって来ることを。諦念はあかく、愛憎はあおく、というところは観念なのだが、不思議にリアリティがある。結句の、読点によるリズムの切れ目が強い。初句では予感だったことが結句で確信となっているのだ。

あ、降ってきましたね雪。そのような温度で医師は癌を告げおり
 病の告知の場面。告知される患者からすれば一生の一大事であっても、告知する医者にとっては日常茶飯事。まるでこの北の地に雪でも降るかのように、さりげなく、ありふれたことのように告げる。この比喩は美しいが、互いの温度差が実感される。「あ、降って」で読点も入れて五音になっている。そこで読みのスピードが落ちるところが、実際の発言を照射している。

パティ、あなたが去ってひときわ咲いたというメイプルソープの白黒の黒
 メイプルソープの白黒写真の黒が一層冴えたのは、パートナーであったパティ・スミスが去ったからだ、ということを伝聞で言っている。メイプルソープの写真の美しさは言語化が難しいものだ。見るしかない。1970年代にアンドロギュノス的なパティの魅力を存分に引き出したアルバムカバー写真を思い浮かべられれば、それがこの歌の背景となってくれるだろう。

さびしいのびのなかに吹く風のありしんそこひえてここも生身だ
 「び」の中に吹く風。「び」は音だろうか。それはおそらく主体の持つ想像上のイメージだが、自分の身体が「び」からの風を受けることによって、心底冷えてゆく。どうやっても暖まらない、そんな生身の身体を感じている。今ここにいる自分の生身こそが心底冷えているのだ。

ストーブに頬よせている ししむらの最期に出会う火は薪がいい
 初句のストーブが薪か石油かあるいは電気かは分からないが、それに頬を寄せて、少し暖を取ろうとしている。このストーブのように、あるいはこのストーブとは違って、薪のストーブに出会いたい。自分の肉体が死ぬ、その最期の時には。北海道の寒さが窓外にあることが無言の前提となっている。

押しボタン式信号機待つかたわらにエゾリスも立ちエゾリスと待つ
 エゾリスは信号が分かっているのだろうか。主体の傍にちょこんと立って一緒に信号待ちをしている。とても賢くて、人間と一緒に道を渡れば、恐ろしい事故に合わないと知っているのかも知れない。シマリスよりは少し大きい。頭の毛が逆立ったようなところが愛敬のエゾリス。童画風の、楽しくなる一首。

六花書林 2023.2. 定価:本体2000円(税別)


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