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『はるかカーテンコールまで』笠木拓

 第一歌集 343首。非常に繊細な感覚で、丁寧に詠われている歌集。生の根元的な孤独感、寂しさに触れている歌が多いという印象を持った。祈りのような、つぶやくような文体が特徴的。語彙は華やかなものが多い。古典和歌を詞書のように引いたり、本歌取りをした歌が、歌集後半に見られた。

飛ぶものを目で追いかけた夏だった地表に影を縫われて僕は

 「地表に影を縫われて」という表現がどこにも行けない感覚をよく表している。影を縫われ、そして鳥や虫、雲、あるいは飛行機などを目で追っていたのだ。夏という季節もいい。短いが濃い影に捕らえられているのだ。

踊り場を曲がる一人の影は見えまたねってまた言えますように

 自分の前を歩く人が踊り場を曲がっていく。その影だけが見える。絶妙な距離感を保っているのだ。「またね」と言いたいけれど、このままの距離では言えそうにない。言えますように、と祈りのように思いながら歩いて行く。

地下街を出たなら日照雨(そばえ) もう誰を助けられなくたっていいから

 地下街を出たら日照雨が降っていた。細かな雨が陽を受けてまぶしい。気まぐれな天気。誰かを助けたかったのだけれど、自分にはその力が無いと気づいて雨の粒を見つめている。けれどそれは絶望などの強い感情ではないのだ。静かにその気持ちを受け入れている。

その胸の空洞をおもいえがくときオルガンの厚い和音は聞こゆ

 その胸、は素直に読めばオルガンの胸ということになるだろう。内部の空洞に音が反響するのだ。しかし、初句から「その」と言っているため、何か指すものがあるように思う。誰かの空虚な胸か。「厚い和音」が上手い。パイプオルガンのような重層な和音が聞えるようだ。

あかねさすティーカップには日が溢れ会いましょうまた忘れるために

 「あかねさす」は「日」にかかるのだろう。間に入った「ティーカップ」はもう空、お茶を飲み終えて空っぽなのだ。そこに日が射している。そろそろお別れの時間なのだろう。また会いましょう、と相手に告げる。それはまた忘れるため。相手と会うのは忘れるためなのだ。解釈が分かれるところだが私は今その人と会っていると取る。

だが会いにゆかねば遠く尖塔がふかぶかと藍にしずむ夕暮れ

 その人との関係は薄いものなのだろう。あるいはもう関係は切れかけているのかもしれない。だが会いに行かねば、と作者は思う。「尖塔」がヨーロッパ的な風景を感じさせる。夕暮の藍色の空に尖塔が沈んでいく。美しい風景に「会う」という行動が似合う。

水差しがそこにはあって光るから小さな夜に名前を呼んで

 この「~から」には因果関係は無い。「水差し」という語彙も少し日本離れしている。フェルメールの絵を思い浮かべた。水滴を纏って光を反射しているのか。「小さな」夜とは何だろう。何も出来事の無い、二人だけの夜だろうか。結句の「呼んで」は言い差しではなく、頼んでいるのだと取った。

遠雷はビー玉の味 兆すときそれが妬心と思わなかった

 遠雷は実景では無く、自らの感情の表現だろう。遠雷が起こるように何かの感情が兆す。そしてそれは嫉妬だった。思いがけず起こった嫉妬。自分は人に嫉妬していると知って自らの感情を持て余している。喉元に何かが引っかかったような気分。それをビー玉と表現する。おそらくラムネの瓶に入っているビー玉だろう。ビー玉のように透き通っている存在が心の中を行き来する。

呼ぶ声に顔を上げれば夜桜がポップコーンのように明るい

 お花見に訪れたのだろう。親しい人と一緒ではないように思う。俯いて食事をしていた作中主体を誰かが呼ぶ。その声に顔を上げれば、自分を呼んだ人々の顔が見えたのだろう。その背景にある夜桜は、花というよりポップコーンのように見える。ライトアップされたポップコーンのような桜を、明るいと詠う時、却って作中主体の孤独感が浮き彫りになる。

約束をしておとずれた水槽のくらげの前でまた約束を

 会おうという約束をして会った。そしてまた会う約束をしている。だからその人との関係は安定しているはずなのだが、「くらげ」の浮遊感、不安定さが、そう解釈することを妨げる。また約束をする人間の背景に、形を変えるくらげがゆらゆらと泳いでいる。確かなものは何も無いと思わせられる。

港の人 2019年10月 2000円+税

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