永田淳『光の鱗』(朔出版)
2015年から2021年までの445首を集めた第四歌集。所属する歌誌『塔』の選者になったことを一つの区切りとして編まれた歌集である。歌集出版社の代表として、歌誌の選者として、さらに四人の子の父として、壮年の日々を詠った一冊だ。
健闘と呼ばるる勝ちはなしひたひたと蛇口を落つる水滴の冴ゆ
この歌を読んではっとした。健闘は「負け」についての言葉なのだ。健闘と言ったら褒められたようだがそうではない。もしそれが生死を懸けた闘いであったら、健闘と言われても浮かばれない。おそらく主体は「健闘」と言われた側。蛇口から落ちる水滴の音に耳を打たれているのだ。
展翅図のあまたなる図鑑晩秋の子の指先は繰りており屍(し)を
昆虫が翅を拡げた姿が多く描かれている図鑑。美しい昆虫たちの姿を追って頁をめくる子の指先。それは美しい図を追っていると同時に、その生物の死の姿を追っていることでもあるのだ。
貝殻を沈めてあるく日の暮れをさびしい人に見られておりぬ
海岸を歩くと足の裏に押されて貝殻が沈んでいく。夕暮れ、そんな海岸沿いの歩みを続ける作中主体をさびしい人が見ている。このさびしい人はおそらく主体に近い人だろう。そしておそらく主体の心も同様にさびしいのではないだろうか。
鮮やかな断面を見せその後は同じ顔ぶれの揃うことなし
友人同士の会に集っての歌。おそらくは大学の友人の集りだろう。もはや大学は卒業しており、一回ごとに集まるメンバーは違う。その時その時の人の繋がり。お互いの心の鮮やかな断面を見せ合う。しかしその後は同じメンバーが揃うことはない。一度だけのその雰囲気は決して再生できないのだ。
前線に最初に着きしが殺さるる自転車道までのぼりくる葛
戦争の話しかと思えば、崖を登って来る葛の蔓の話だ。自転車道に蔓がはびこられたら走るのに厄介だ。道を管理している側か、あるいは自転車で利用している人がか、葛を切り落としてしまうのだ。競うように上へ上へと伸びて来て、最初に人間の道に着いたものが駆除される。前線、の言葉選びから分かるように、作者にはもちろん、戦争のイメージがあるのだろう。
小さなる嘘をつきたる日の暮れに木蓮大きく咲くを見にゆく
人はみな小さな嘘を積み重ねて生きている。それを意識するしないに関わらず。しかし強く意識した時は些か居心地が悪い。そんな日は日暮れに木蓮が咲くのを見に行く。嘘も本当も無く咲く花の、大きな広がりの中に自分の居場所を探すかのように。
何喰っているのかなどと思わぬこともなし桜に淡く月光のさす
大学に受かって下宿した息子。自分の手から離れた子供をぼんやりと思い描く。何を食べているのだろう。ちゃんと栄養は足りているのか。そんなことを取り止めもなく思い描く。若者が巣立って行く春。桜にも淡く月光が射している。
夏の陽に耀(て)りながら降る大粒の驟雨のごとく人を恋いいき
上句は序詞と取っていい。意味は下句にある。驟雨のようにひと時だけ、激しく人を恋した。上句は有心の序とでも言うべきものだ。驟雨の様子を、夏の陽に輝きながら降って来る、天気雨のような大粒の驟雨、と描写する。人を恋う感情を雨に喩えて美しく表現している。
体育館にバッシュの音を高鳴らせ若さはすなわちバネなる迅さ
息子のバスケットボールの試合を見に行った主体。体育館の床にバッシュが擦れる鋭い音が響く。素早く動く若い身体は、バネのようにしなり、弾けて動く。若さとは迅さ、それもバネのようにしなやかで滑らかな迅さなのだ。
軋みつつ日々は過ぎゆく風中のあかまんじゅしゃげしろまんじゅしゃげ
人の日常は楽しく滑らかに過ぎて行くのではない。軋みつつ、苦い思いもしつつ過ぎてゆくのだ。風の中に曼珠沙華が揺れている。赤曼珠沙華、白曼珠沙華、花の名を唱える音が、オノマトペのようになって揺れる気持ちを伝えてくれる。
朔出版 2023.2. 定価 本体3000円(税別)