見出し画像

中井スピカ『ネクタリン』(本阿弥書店)

 第一歌集。399首を収める。第33回歌壇賞受賞作「空であって窓辺」収録。都会で働く仕事の歌、母との関係性の歌、きみとの歌、など生活に沿った素材を巧みに詩にしている。Ⅱ章の長期海外旅行の連作が、作者に新しい視点をもたらしている。あとがきに沢木耕太郎『深夜特急』が出てくるのも納得だ。

フォルダへとリスト格納し終わってバスク地方へ明日行きたい
 コンピュータの操作をしている主体。作ったリストをフォルダへ格納し終わって一段落だ。随分大変な作業だったのだろう。一段落着いて、急に疲れが出て、気も抜ける。その時唐突に、バスク地方へ行きたい、それも明日行きたい、という切実な欲求が心に兆す。スペインへ、という大きな括りではなく、バスク地方という具体的で細分化された目的地。スペインの中でも独自の文化を持った地方。そこへ突然明日行きたいのだ。陽気な人々、美しい景色、アートと美食と地ワイン。オフィスを一陣の風が駆け抜ける。

代わりなら幾らでもいて赤々と脚入れかえてゆくフラミンゴ
 湖に大群で立つフラミンゴ。片脚で立ちながら、脚と脚を入れかえている。どちらの脚で立っても同じこと。また人間が彼らを見ても、個体と個体の区別などつかない。どのフラミンゴとどのフラミンゴを入れ替えても分からない。オフィスで働く人間も同様だ。自分としてはその能力を目いっぱい発揮して働いているつもりでも、一人の要員に過ぎない。代わりなんていくらでもいる。自分自身も、職場の同僚も。

慰めなんて潰れたケーキ渡すだけ引き延ばされる時間の果てで
 仕事で許されない失敗をしてしまった先輩。自らのやったことの大きさに潰されそうになっている。主体としては気の毒に思うが、何ともできない気持ちでいる。上句はまさにその心境そのままだろう。慰めになることを言おうとしても、そのタイミングがどんどん後延ばしになっていく。いつ言えばいいのか。そんな逡巡が下句に表れている。言ってもどうにもならないのも充分分かっているのだ。

月食が起きる頻度でよいのです よくやったなって言って撫でてよ
 上句下句どちらも話言葉だが、上句はですます調、下句はもっとくだけた普段の言葉遣いだ。下句はそれだけに本音だという印象を与える。何についてか分からないが、仕事を始め、生活全般、家庭での親との関わり、それらすべてを認めてほしい。よくやったなと言ってほしい。できれば頭か背中かを撫でてほしい。上句はそれが叶わない願望だということを予め告げているかのようだ。月食の起きる頻度という低さ、それでいい、という譲歩。本当はそんなに少ない頻度でよいはずないのだけれど。「よいのです」という丁寧さが、願望の叶うことの遠さを表している。

水切りをして首だけで咲いているガーベラそれでもきっと幸福
 長い茎を少しずつ少しずつ水切りして、とうとう花首だけになったガーベラ。平面的なガーベラは花首だけ水に浮いていても結構絵になるのだろう。だから根拠は無いのだけれど、きっと幸福、と思ってしまう。人間の為すがままに水に浮かべられ、枯れるまで顔だけで微笑んでいる。こんなガーベラの状態に「幸福」という語を持ってきた、主体の幸福はどんな形をしているのだろう。

寛容にまたなれなくて飛び出して路地の向こうは全部ダリアだ
 母を詠った一連の中の一首。老いを深めてゆく母。その過程でも変わらない、主体に取っての母の嫌なところ。もうお互い年齢も年齢なんだから、と自分に寛容を言い聞かせる。でもまた我慢できなかった。せめて母に対してきつい態度を取らないように、家を飛び出した。その目に飛び込んでくるのはダリア。路地の向こうは全部ダリア。そんな訳無い。他の植物だってあるはず。でも目に入るのは赤やオレンジの鮮やかなダリア。まるで主体が自分の心の中を見ているように。

やり直せないって誰が決めたのさ Japanese以外がいつも言うけど
 第Ⅱ章は全てオーストラリア旅行の歌。大陸を横断する旅の一連だ。上句は主体を励ましてくれる言葉。やり直せないなんてことは絶対無い、いつでも何度でもやり直せるよ、やり直せないって決めてるのは君でしょう、君さえやり直せると思えばやり直せるんだよ。・・・そうだな、と思う。励ましてくれてるのも分かる。でも自分で自分にブレーキをかけてるだけじゃないってことは、多分Japaneseじゃないと分からない。Japanese以外の人には正論でも、それは日本では通らない。非日常の旅の間も、Japanese社会の慣習に縛られている。それが私たちJapanese。

地面から生えて清楚で凶暴なユキヤナギからまってゆく夜
 これは一首で読むのと、一連の中で読むのと随分印象が変わってしまう歌。一首で読むと、その通り、雪柳は地面から生えて、一見清楚だが、植物によくある貪欲な成長をして、しまいには自らの枝同士絡まってしまう。そんな植物を少し擬人化して詠んだ歌。しかし一連の中で読むと、性愛の比喩の歌に読める。主体が自分の内部に持つ性愛の力に気がついた歌だと読んだ。地面から力をもらって、清楚なまま、しかも凶暴な力で相手に絡まってゆく。目の前に雪柳があってもなくても一首は成立する。

なくしたくないんだ君をシグナルはもう点滅で加速する靴
 信号が変わりかけでもう点滅している。君に追いつきたくて、必死に走る。加速する「靴」なのがいいと思った。自分でも、足でもなく、靴が加速している。きみとはぐれたくない。残り時間は少ない。横断歩道を渡る動作に象徴させて、君への衝迫感をあらわす。上句の話し言葉が直接君に語りかけている。

あんなにも凌霄花あんなにも炎の色で天に近づく
 「あんなにも」の繰り返しに強い憧れの気持ちが出る。あんなにも、と言いながら凌霄花へと目線を上げる時、身体の中から外へ、心が出て行くようだ。韻律が心の飢えを導き出す。自分もあのように激しく燃えながら天に近づけたら。そうなりたい、なれるかも知れない。生きているという実感が、自分の心と身体を鷲掴みにする瞬間だ。

本阿弥書店 2023.7. 定価:2640円(本体2400円)

 

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,902件

#今日の短歌

39,363件