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『開けば入る』梅原ひろみ

第一歌集 492首

 とても惹かれた歌集。作者は貿易商社の社員としてサイゴン(ホーチミン)市の駐在員事務所長を務めた。工具を売り、ベトナム人に伍して働く日々。力強い仕事の歌、恋愛の歌、故郷日本の歌、家族の歴史の歌・・・。歌集一冊丸ごと引きたいぐらい魅力的だ。

エンジン音湧き立ちてをり信号の変はればバイクみな発進す

 ベトナム人の足はとにかくバイク。圧倒的な量のバイクが行きかうベトナムの都市。何人もの家族が一台のバイクに乗って走ることもざら。発展するベトナムの熱気の伝わる一首。

工具とふ愚直さはよし分解と組立手引きのヴィデオに飽かず

 作者の売るのは工具。どんな工具なのか想像がつかないのだが、工具というものの持つ愚直さを作者は愛している。とにかく力強く役立つことが大切。その取説ビデオを繰り返し見ているのだ。

真夜中のチーズをかじり米兵の月間死者数の記事を読みをり

 ベトナム戦争に負けた後も、世界各地に派遣される米兵たち。一体月間死者数はどれぐらいなのだろうか。チーズをかじりながら記事を読む作者の視点はおそらくベトナム人に同化しているのだろう。

人民の笑顔おほきく描かれて二階建てバス急発進す

 「人民」という言葉がいかにも社会主義国だ。そして多分判で押したような笑顔。笑顔が描かれたバスに生活者であるベトナム人達は乗って行く。荒っぽい運転が想像される。何の絵が描いてあろうが、バスはバスとして走って行くのだ。

村はみな運河に沿ひて拓かれき婚礼衣装屋水の上(へ)にあり

 メコンデルタの中心都市カントー。村がみな運河に沿って拓かれてきたという、時間的に長い視点が印象的。水上に暮らす人々も多く、豪華であろう婚礼衣装さえ水の上の店で売られているのだ。文化の在り方が具体で示されている。

カント―の街にまた会ふBac Ho(ホーおぢさん)の像はメコンの川風のなか

 ホーチミン(サイゴン)からカントーに出かけても、やはりホーおじさんの像はある。建国の英雄を、親しみを込めて呼ぶベトナム人たち。メコンの川風に吹かれるおじさんの人柄が思い浮かぶ。

トトトトとそれぞれの息をつぎながら川を行きかふ小舟の多し

 川を行き交う小舟はみな小さなエンジンを積んでいる。そのエンジン音が温かみのある擬音で描き出される。エンジン音を「息」と表したところに小舟で生活する人々への視線を感じる。

暮れ残るメコンの水面を舟はゆく荷とエンジンと夫婦を乗せて

 おそらく夫婦で運送業をしているのだろう。むきだしの小さなエンジンと大きな荷物。舟をあやつる夫婦の姿がメコンの水上に見えるのだ。詩情あふれる一首。

椰子の葉の影をうつしてフランスのをんなの背(せな)のまことに白し

 マルグリット・デュラス原作の映画『愛人/ラマン』を思い浮かべた。フランスがインドシナを植民地としていたことからフランス人がベトナムの街にいることは不思議ではないのだが、背中の開いた服を着たフランス人女性の肌の白さはアジアの地ではやはり異質なのだ。初句・二句の描写が美しい。

わが父祖の還りゆく土赤くして石の蔭より射干乱れ咲く

 祖父の死去に際して日本に一時帰国をしたのだろうか。由良川のほとりの祖父母の里が陰影深く描かれた一連中の一首。赤い土、射干の花などから日本の風土が浮かび上がる。

半世紀前の『東南アジア紀行』買ひてタイから戻るベトナム

 梅棹忠夫著『東南アジア紀行』という注あり。半世紀前の民族学者の目を通して、自分の住む東南アジアを見つめ直そう、と本を選んだのだろう。「戻るベトナム」に、作者が第二の故郷としてベトナムを捉えているのが感じられる。

爆撃に逃げ惑ひしといふグエンフエを渡らむバッグをしつかり押さへ

 かつてベトナム戦争のさなかには米軍の爆撃から人々が逃げ惑ったグエンフエ通り。今はホーチミンの目抜き通りとして賑わっている。バッグをしっかり押さえるのはスリに用心してのことか。時間の経過を見つめた歌。

海の響き伝はるらしも石となる海獣マカラの耳はそばだつ

 ベトナムの先住民であるチャム族の遺跡を訪ねた折の歌。海獣マカラに異国情緒がかきたてられる。耳をそばだてているマカラの傍で作者も共に海の響きを聞いている。

木の扉あまた立て掛け遠つ世の街角にわれは扉売りをり

 前世の自分だろうか。木の扉というのにリアリティがある。どこの街角か分からないが、きっとアジアの川に沿った街なのではないだろうか。

細き根をあまた垂らせるおほき木の生ゆるカフェなりすずめ飛び立つ

 大きな木の木陰を利用したようなカフェなのだろうか。欧米人好みの屋外席を想像する。初句二句にアジアの植物の豊かさを感じる。

幾たびの旅立ちをわれは繰り返し、また立つための場所に戻り来

 人生で何度も旅に出た作者。そしてまた新たな旅立ちのための場所に戻って来た。日本語環境を離れると、短歌は作り難く感じる者も多いと思うが、この作者はそんな制約を軽々と越えて行く。これからも力強い旅の歌を作り続けてほしい。

ながらみ書房 2019年4月 2500円(税別)

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