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『世界はこの体一つ分』川口慈子

第一歌集 402首所収

 作者はピアニスト。音楽大学在住の日々から、ピアニストとしての生活を送る日々へと歌が続く。身体性と直喩が特徴。

書きかけの手紙のような面持ちで友が校門を入ってきたり

 まだ途中。でも緊張している。そんな友を見る作者も同じように何かの途中なのではないか。

ホイットマン詩集読みいるわれに来る猫の言葉は不思議に日本語

 労働者の、市井の人の心をうたい上げたホイットマン。その心に寄りゆく時、猫も自分の心を理解して話しかけてくれるように思うのだ。

炎天の己が影の上走りゆく蜥蜴の青の強さうらやむ

 炎天下、人間は動くのが辛いのに、蜥蜴は敏捷に移動していく。自分の影を踏んで。そのきらめく青の強さが人間の身体を引き摺る作者には美しく映る。

花びらが地に着くときの重さなど考えながら鍵盤を弾く

 おそらくこの作者でないと詠えない歌。そんな軽さ/重さを一般の生活をする者は意識することは無いのだ。

張りつめる水に口づけするように第一音の鍵盤鳴らす 

 同上。特に第一音は演奏に於いて大切なのだ。張りつめる水は会場の空気であり、作者の胸の内でもあるのだろう。

草舟を押しやるように投函す長い手紙を入れた封筒

 長い手紙は書いている時は夢中だが、出す時、これで良かったのかと迷いがちだ。それをそっと押しやるようにポストに入れる。初句の比喩がぴたりとはまった。

階段を独りのぼればしんとして雨の地球はこんなに冷える

 雨の日に、どこか大きな建物の階段を上っているのだろう。建物の冷え、心の冷えを、地球の冷えと捉えたスケールが大きい。寂しさのスケールも大きいのだ。

水族館のいるかのように問題を解き終えるたび食べるミニチョコ

 分かる分かる。何とか課題をやり遂げようとする時に、多くの人がするやり方では。いるかの愛らしい表情を思い浮かべながら、面倒な課題をこなす。

太陽の光に溶けしイカロスのシャツの匂いの男を抱く

 屋外に長くいた男性だろうか。シャツに陽の匂いがする。それをイカロスに喩えたところが魅力。物語の本の中の一葉の挿絵のような歌。

「愛してる」と言われし言葉抜くように耳から細きピアスを外す

 もうその言葉は言われなくなってしまったのだろう。記憶を捨てるようにピアスを外す。「細き」ピアスなのが、実感を伴う。

わが部屋を三分の一占拠するピアノの脇で混ぜる納豆

 アップライトではなくグランドピアノなのだろう。生活できないほど大きなピアノ。その横で質素な生活そのもののような納豆を食べる作者。落差が面白いが、日本のクラシック音楽の実状も表しているのではないか。

丸みもつ君の背中を指圧して楽器に続く筋に触れたり

 おそらく音楽仲間だろう。お互いに指圧しているのではないか。だからこそ、この筋は楽器に繋がると意識することができるのだろう。

ぬるき水とろりと指をくぐるなり暫くはおたまじゃくしのままで

 自分の指がおたまじゃくしになったような感覚。水はぬるく、とろりとして、それ自体が命を持っているようだ。

家中に刃物は眠り引出しを開ければしんとペーパーナイフ 

 一・二句が絶妙。どの家もそうかも知れないが、それを意識した人だけが詩にできる。ペーパーナイフという鋭利でない刃物で収めたところもいいと思う。

コンサート近づいて眠り長くなるこの世界から少し遠退く

 芸術を本業とする人にしか無い身体感覚だろう。本能的に自分の中に沈んでゆく、そして表現すべき何かを、身体の中から攫み出してくるのではないだろうか。

角川書店 2017年8月 2600円(税別)

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