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三井修『汽水域』(ながらみ書房)

 第九歌集。2005年6月から2013年1月までの作品506首を収める。汽水域は海水と淡水の交じり合った状態だが、それが作者自身の年齢の若くも老いてもいない状態と響き合う。多くの読者の共感を呼ぶ捉え方だ。この時期に身の回りの人々の死や、世界情勢の変化などが起こったが、それらを踏まえつつも自身の背中を伸ばすような歌の姿勢が一冊を貫いている。

継(つぎ)の母老いて意識の衰うと聞きてもわれに知恵のあらざり(P11)
 巻頭の一首。父亡き後、主体の実家に暮らしていた父の後妻、主体にとっての継母が老いて、もはや一人で暮らせない状態になった。意識が衰える、は認知機能の低下を指していると取った。だからといって主体にはどうするという知恵も浮かばない。血の繋がらない親との希薄な関係。それをどうにもできない自分を美化するわけでも露悪的に表すわけでもなく、端的に表現する。それゆえにお互いの孤独が一首の背後に浮かび上がる。

小雨降る中の出棺 柩にも誰かが黒き傘さしかける(P15)
 継母の葬儀の場面。実母と継母の二人の母の葬儀を体験したことになる主体。一連には死に顔が安らかであったこと、親孝行ができなかったことを悔いていることなどを詠った歌がある。これは出棺の場面。小雨が降っているので生きている人間はみな傘をさす。咄嗟に誰かが柩にも傘をさしかける。まるで生きている人にするように。その本能的な動作のやさしさ。そしてそれを見ている主体の気持ち。事実だけを詠って、そこにある人としての優しさを彫り出した歌だ。

様々なことありしかど出家することのみ思わざりしわが生(P48)
 古典文学や歴史書の中の、昔の人々はすぐ出家する。びっくりするほど若く出家してしまう。人生の辛苦から逃れるのに出家が最も身近で現実的な方法だったのだろうか。それから考えると現代の日本人は、悩みや辛苦があっても滅多なことで出家しない。その選択肢があることすら意識に昇らない。筆者もこの歌を読んで、その選択肢に気付き、思わず微笑んだ。その手があったか。しかし主体も読者も、その選択はしない。ただ煩悩にまみれてこの世を渡って行くしかないのだ。

夏雲の高く聳ゆる昼下がり この世に倦みたるごとく犬鳴く(P55)
 おそらくものすごく暑い一日。その中でも最も気怠い昼下がり。人も景色も止まったような炎暑の中を、犬が鳴いている。心なしか犬の声も気怠く、この世を倦んでいるかのようだ。もちろん、犬がこの世を倦んでいるのではなく、倦んでいるのは主体。自分の心の中が、自分の外に存在するかのように感じられることがある。それが表れた一首だ。

やわらかにわが胸出で入る死者たちの低き声あり人住まぬ家(P96)
 自分が育った家が今は廃屋となっている。故郷である能登にはもはや誰も家族は住んでいない。人が住まなくなれば、怖ろしい速さで家は劣化していく。荒れ果てた実家を見て、そこに出入りしていたかつての家族、今は死者となった人々の低い声を聞いている主体。記憶の中ではいつまでも若く輝かしい家族、そしてそれらの人々を入れて、瑞々しい生気を保っていた家。全ては主体の胸の中にしか無いのだ。

スクランブル交差点にはバーナムの森の如くに傘がさやげり(P116)
 不穏な一首。「バーナムの森が動かない限り」、権力は安泰だと魔女たちはマクベスに保証してくれた。しかしマクベスを滅ぼすために、敵軍は森の木々を一枝ずつ兵に持たせて移動する。身を隠すために。おそらく魔女の予言は知らずにしたのだろう。バーナムの森が自分の方にやって来るのを見てマクベスは自分の破滅を悟る。スクランブル交差点の傘たちにバーナムの森を見た主体の眼力に驚く。交差点の傘たちは一体誰を滅ぼそうとしているのだろう。そしてこれからどこへ向かうのだろうか。(追記:日本の交差点の雨の日の風景と取って読んだが、2023.12.7.、周庭氏のカナダ亡命のニュースを見ていて、この歌は2014年香港の雨傘デモを差しているのかもしれない、と考えた。)

辻褄の合うも合わぬもわが一代(ひとよ) 菜の花今日はあくまで黄色で(P122)
 自分の一生を振り返り見る時に辻褄が合っていたか合っていないかは自分の判断による。自分で決めることだ。菜の花そのものは元々全くぶれなく、いつもどこでも黄色い。それを主体は「今日はあくまで」と捉えた。揺れ動く自分の心のように、菜の花の色が変わるわけではない。けれど、まるで自分の心を定めるように、菜の花の色を今日は固定して考えるのだ。

ドア開けて身に纏いいる月光を払いて家に入りゆきたり(P140)
 詩的な感性が光る。外から家に戻る時、何らかの意識の切り替えが必要だ。身体に纏いつく月光を払うかのように、外の世界で自分が身に纏ったものを振り払う。家は家。そこに無理なく滑り込むために、美しい月光と言えど払いのけて入って行くのだ。

鋭刃(とば)をなす真冬の光 満身に傷負うために昼を出でゆく(P151)
 一首前に挙げた歌と対を成す歌のようにも思える。昼の光は容赦なく人を傷つける。社会という名の世界の人間関係のように。その光は特に真冬には鋭く、刃のように感じられる。この光を受ければ傷を負う。それも分かっていて、光の中に身を投じて行く。それが日々を生きるということなのだ。

空中に見えざる薔薇を次々に繰り出して指揮者の指は華やぐ(P157)
 オーケストラの指揮者の指の動きの意味するものは、素人には分からない。あの指の動きだけで、大人数のオーケストラを一つにまとめ、自在に音楽を操っているのだ。それが楽器を扱わないものには、意味ある符号というよりは、見えない薔薇の絵を描いているように見えるのだ。そう言われれば実際そう見えて来る。華やかに音楽をまとめ上げる指揮者の指。文字の間から音楽が聞こえるような歌だ。

2016.5. ながらみ書房 定価:本体2800円(税別)






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