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渡辺松男『時間の神の蝸牛』(書肆侃侃房)

 第十一歌集。2017年7月までの未発表歌626首を収める。2022年6月に第十歌集を出した時は2016年6月まで作の歌だということだったので、その後の約1年間にこの626首が詠まれたことになる。大変な多作である。それでも松男ワールドの質は保たれている。作者は「記憶と想像で詠んだ」と後書きに書いているが、一人の人間の記憶と想像の幅の広さに、読者は引き込まれてしまうのだ。特に亡くなった配偶者の存在が記憶と想像によって鮮やかに再現されているのが心に残った。

ノーザン・クロスとくに浮きいづる涼しき夜てうるい図鑑ゆ鳥類の発つ(P12)
 夏の星座である白鳥座は白鳥が羽を広げて飛ぶような十字の形をしている。天の川に重なって見えるのだが、その白鳥座のノーザン・クロスが特に浮き上がって見えるような涼しい夜、白鳥に誘われるように図鑑から鳥たちが空に飛び立ってゆく。窓辺に置かれた図鑑なのか、主体の頭の中にある図鑑なのか。「てうるい」と旧かな遣いだが、「鳥類」と発音は同じ。見た印象と読んだ印象にズレを感じつつ、音の繰り返しを楽しむ。

うつすらとみどりのきぬにおほわれて肉体となりぬ五月の赤城山(あかぎ)(P25)
 
五月になり、うっすらと緑色の若葉に山全体が覆われたような赤城山。山全体を一つの生命体と感受することは詩歌にはままあることかも知れないが、それを「肉体」と言ったところが渡辺ならではと思う。緑の新芽を緑の衣(きぬ)に喩えた。山の躍動する肉体が主体自身の肉体と重なる。第一歌集『寒気氾濫』の頃の山と木に対する愛情が蘇ったかのような歌だ。

太陽光に金粉となりし鹿ありぬ銀粉となりし人あり山に(P30)
 
登山中、鹿を見かけた。太陽の光を受けて、鹿の姿は逆光の中、金色に光って見えた。一つ一つの光が粉のようで、身体全体がぼおっとした金色の光の粉がキラキラ輝いて見えた。同じく、逆光の中でみた人間の姿は銀の粉がチラチラと輝くように見えた。きっと鹿の毛皮に溜まる陽が金色に見え、人の服が弾く陽が銀色に見えたのだろう。これも登山の時の記憶の断片だろう。

青木ヶ原樹海に大瑠璃鳴きてゐしきみありわれありいまだ死のなく(P47)
 
青木ヶ原樹海は迷い込んだら出られない、死を思う人が迷い込んで行く、などの伝説である時期、語られた。主体の頭にそうした樹海の死のイメージがちらつきつつも、記憶に思い出しているのは、現実の樹海であり、緑濃い、自然豊かな場所として姿だ。そこでは大瑠璃が美しい姿を見せ、美しい声で鳴いている。それを聞いているのは記憶の中の君であり、われである。二人一緒に登山した時の記憶だろう。まだ君が死ぬとは思っていなかった頃。深い森の緑と青い鳥の美しい声が君との記憶を彩っている。

発狂をうつして壊れざる鏡 千年後は千年前にもありぬ(P85)
 主体の手元にあり、主体の顔を映してきた鏡。主体の心の乱れも意識の乱れも全て映してきたのだ。あるいはその狂気さえも。どんなに主体の心が壊れてもそれを映す鏡は壊れなかった。そのままに今もそこにある。千年前の千年後は今だ。昨日の明日は今日。時間は人の傍らをただ流れてゆくだけだ。この連作「千年前の千年後」は鏡を主にしており、一首目の「わが吐きしすべての声を溜めてゐる鏡がひらく西日のなかに」も併せて味わいたい。
 
うつしよへ亡きひとが目をひらくとき幹からぢかにさくら一輪(P88)
 春の桜を愛でる時、毎年胴吹きの桜に目が止まる。老木に多いと言われる胴吹き。そのエネルギーの噴出が異様な力を以て見る者を釘付けにする。主体はその一輪の桜を見て、死んだ人が現世に目を開いていることを感じ取る。桜がその目というよりは、桜の背後で亡き人が目を開き、その力を受けて胴吹きの桜が芽吹き、開いた、という印象を受けた。亡き人はおそらく亡くなった妻だろう。

ぜんたいが脳でも全体がからだでもどちらもおなじ咲くチューリップ(P121)
 咲いているチューリップの全体が脳であっても身体であっても同じ、という歌意だが、これは主体の体感のことを言っているのではないかと思った。例えば、横たわっている時、自分の身体全体が脳の一部になったように思える。それは別の言い方をすれば、身体全体が自分の意識の上での身体でしかないということ。その感覚をチューリップに投影して見ているのではないか。

みづたまは懐妊をしぬ蓮の葉はひとつぶづつの月球おきぬ(P143)
 蓮の葉に溜まった水の玉。そのひと粒ずつに月が映っている。水の玉がその丸い身体の中にさらに丸い月を宿している。その姿を「懐妊」したと捉える。蓮の葉の上の水の玉、その上の月球。美しい夜の風景が描き出されている。

樹の方へ吾(あ)を向くるとき樹の方はすでにありけり愛に似てゐて(P164)
 樹の方向へ自分の身体を向けた。その時、樹は既にそこにあった。自分がどちらを向いていようが、樹はそこにあって、自分を見ていた、待っていた。その姿は愛のようであった。樹との交感。この世にいない人が、樹の姿を借りて自分を見ていてくれたような感慨も感じられる。

泰山木けさ開きたりありありとゐないのにゐるひとのあり方(P176)
 泰山木の大きな白い花が今朝開いた。人の頭ほどもある大きな花。その花の存在感はありありとしている。花の存在感が、今はもういない人の存在感を連れてくる。もういないのに、いる。そんな亡き人の在り方。花の傍でその人の存在をただ感じている主体。

書肆侃侃房 2023.12. 定価:本体2500円+税

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