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富田睦子『声は霧雨』(砂子屋書房)

 第三歌集。2018年春から2021年秋まで、44歳から48歳までの381首を収める。思春期の娘に寄り添い共に生きる日々は自らの思春期を生き直すことでもある。母親として一人の女として娘の成長を見つめる。後半、コロナ禍が世界を襲い、その制限された日常生活での様々思惟もまた歌となっている。

種こぼれこぼれたところで咲いている金魚草みな舌をだしつつ(P36)
 金魚草は結構強い植物。種を植えなくても、こぼれ種から芽を出す。金魚草の花の下側の花弁は確かに舌を出しているように見える。こぼれたところで咲いて舌を出している、したたかな植物。舌を出す仕草には愛敬もあり、主体の金魚草に対する親しみの感情が感じられる。

生きながら白くて丸い黴生やし胸鰭だけを動かしいたり(P46)
 飼っている金魚がある日、水に浮いていた。しかしまだ死んではいない。胸鰭だけを動かしている。その金魚に白くて丸い黴が生えている。生きながら他の生物に寄生されているのだ。間もなく死ぬだろう。その金魚を冷静に見つめる目。「白くて丸い」という観察が生命の連鎖の残酷さを淡々と描き出す。

鯉の背のぬるぬるふくらむまなざしに互いの娘を褒め合う母ら(P58)
 PTAの集まりだろうか。お互いの娘を褒め合うママ友。心にも無いことでも言わなければならないし、聞かなければならない。その時の彼女たちの目は、おそらく主体の目も含めて、鯉の背中のぬめりのような輝きを持っている。どこか生臭い、鯉の匂いさえ読者は感じ取る。

やせてゆくサルビアガラニティカ紅葉になれざる落ち葉を根に絡ませて(P85)
 サルビアガラニティカを検索すると、濃い青のサルビアの画像が現れる。これか、と思う。サルビアは赤と思い込んでいる目に時々飛び込んで来る花だ。多年草で、地下茎で繁殖するらしい。その根に、落ち葉を絡ませて冬支度をしている。今は痩せて弱々しく見えるが、実は強い植物。三句「こうように」と読んだ。二句に植物名を九音で強引に押し込んだ韻律が楽しい。

茎のごときからだにパーカーひっかけてものいいたげな吾子がうろつく(P100)
 十代前半の少女の身体を「茎のごとき」と直喩できっぱり表現した。まだか細く折れそうな心身。ざっくりとパーカーを羽織って、母である主体の回りをうろうろしている。何か心に満たされない、あるいは傷ついた出来事があるのか。抱きしめてほしいけれど、それは言い出せない年齢。察して欲しい気持ちを母はしっかり掴んでいる。

少女らも稚魚らもひとりひと粒のこころ灯らせ群れては散りぬ(P103)
 稚魚が群れるように群れる少女たち。群れても心が満たされるわけではない。群れては散るを繰り返す。一人一人に一つの心があるが、それは群れることによって分かり合えるものではない。本当に心が許せる友だちはまだ見つかっていない。思春期前期の若者と稚魚がよく合っている。

無糖紅茶を一気飲みして荷物から体重へ水の重さを移す(P107)
 ユーモアの歌。持っているペットボトルが邪魔で一気飲みする。手に持っていた水の重さが、胃の中の水の重さになった。一時的なことなのに「体重へ」と言っているのが大袈裟で楽しい。水でもお茶でもいいのだが、無糖紅茶という飲料は、水の軽みとコーヒーなど(お汁粉とか!)の重みのちょうど中間にある、絶妙な重みと思った。

狂いつつヒースの枯野をわたりくる風かとおもうゆうべくりやに(P145)
 『嵐が丘』を思った。夕方、台所で夕食の支度をしているところに激しい風が吹き込んでくる。まるでヒースの枯野を渡って来る風のような激しさだ。平穏な日々の隙間に、満たされない愛に苦しんだヒースクリフとキャサリンの、狂気の声が聞こえたような思いを持ったのだろうか。

適応を迫られわれら受け入れて無限に甘し今年の葡萄(P215)
 コロナ禍の歌。思えば日本と日本人はコロナに「過適応」と言っていいほど適応してしまったのではないだろうか。受け入れてまるでそれが自分の意志から発したかのように行動してしまった。そんな日々の中で食べた甘い葡萄。生活そのものが自分たちを圧迫し、心がかさついた時に葡萄の甘さが舌に浸みてくるのだ。

うつむいて咲くからきれいとおもうときわたしの中にある支配欲(P220)
 自己省察がとても深い。花は主体の存在に関わりなく、花の在り方で咲いているだけだ。それをきれいと見るか見ないかは見る者の心次第だ。俯いている者、自分に向って伏しているように見えるものを、だからきれいと思ったのだ、と自分を俯瞰する。そしてそれを「支配欲」と分析する。その鋭さに少し戦慄を覚える。

砂子屋書房 2023.11. 定価 本体3000円+税 


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